大判例

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札幌地方裁判所 昭和61年(ワ)1989号 判決

原告

古川美代子

右訴訟代理人弁護士

海部幸造

水野邦夫

被告

北海道

右代表者知事

横路孝弘

右訴訟代理人弁護士

山根喬

右指定代理人

寺田鉄司

外五名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は原告に対し、金四二三六万七五九五円及びこれに対する昭和六一年九月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一事案の要旨

本件は、原告が、被告の設置する札幌医科大学附属病院(以下「医大病院」という。)に入院中、同病院において脊髄の病変の鑑別を目的として昭和五七年三月八日に実施された脳脊髄液(以下「髄液」という。)採取のための腰椎穿刺の直後から、下肢の疼痛、排尿・排便障害、知覚障害、歩行障害等が生じあるいは飛躍的に増悪したことについて、医大病院の医師が穿刺針刺入の際誤って原告の馬尾神経を損傷したことによりこれらの障害が生じたものであるとして、また、入院中の原告の諸症状からして、医大病院の医師は、当然に脊髄腫瘍を疑い、速やかに脊髄造影検査を実施してその旨の確定診断をすべき義務があったのにこれをしなかったために、脊髄腫瘍の発見・摘出を少なくとも二年間遅らせた結果、腫瘍の増大とこれに伴う神経障害の増悪をもたらしたとして、被告に対し、診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償を求めている事案である。

二争いのない事実等(証拠を挙示した部分は争いがあって、認定した。)

1  当事者

原告は、昭和六年三月一五日生まれの家庭の主婦である。二歳の時に結核性の左膝関節炎に罹患し、昭和二七年ころ東京大学医学部附属病院(以下「東大病院」という。)で関節部の手術を受けたものの、そのころ以後も左膝を屈曲できない状態であるが(右文頭からの経過について、〈書証番号等略〉)、三人の子を養育してきた。

被告は、医大病院を設置し、管理している。

2  医大病院における原告の診療経過

(一) 第一回目の入院と本件腰椎穿刺

(1) 原告は、昭和五七年一月一九日、粘液性便の排泄を主訴として医大病院の第一外科で上村医師の診断を受けた(初診)。同科における諸検査の結果では、内痔核及びS字結腸過長があり、これに対する投薬・治療がなされたが、さらに、歩行障害等にかかる診断治療のため、同年二月二二日、左下腿のしびれ感、歩行障害、知覚消失、膿粘血便、全身倦怠感、吐気、嘔吐等を主訴として、同病院第一内科で松本博之医師の診断を受けた。諸検査の結果及び原告の諸症状から、大腸炎及び脊髄に病変があることが疑われたため、原告は、同年三月一日、精密検査のため同科に入院した。

(2) 大腸内視鏡検査・病理組織検査等の結果、原告には潰瘍性大腸炎を強く示唆する症状がみられたため、同科における原告の主治医であった石田明医師は、これに対する投薬・治療を開始した。しかし、同時に、便失禁、乳房下の知覚低下としびれ感等の主訴があり、右膝は曲げると張ったような感じで、真っ直ぐに歩けないなどの症状があり、神経学的には知覚の剣状突起以下での痛覚の低下、両下肢の振動覚のほぼ全面的な消失がみられ、バビンスキー反射が左で陽性であることなどから、石田医師は、脊髄の病変の有無を鑑別診断するため、腰椎穿刺により髄液を採取することとした。

(3) 石田医師は、同年三月八日午前九時ころから、原告に対し、嵐看護婦の介助を受けて、第四腰椎と第五腰椎との間に穿刺針を刺入して腰椎穿刺(以下「本件腰椎穿刺」という。)を実施したが、穿刺針が思うように入らず、途中、原告が足先に達する電撃痛(痛みの程度について、〈書証番号等略〉)を訴えるなどしたため、結局、菅医師が代行した。同医師は、髄液の流出、初圧が一〇〇mmH2Oであることを確認し、クエッケンステット試験により脊髄管の閉塞のないことを確認した後、石田医師とともに髄液を採取した(両医師が共同して髄液を採取したことについて、証人石田)。右検査の結果、細胞数は正常であったが、蛋白質は二二〇mg/dlと軽度の上昇がみられた。

(二) 本件腰椎穿刺後の原告の症状

(1) 本件腰椎穿刺後、原告に、鼠径部から足底にかけての疼痛(激痛)、膀胱・直腸障害による排便障害(便意の消失)及び排尿障害(尿閉)が出現し、第五胸髄以下の知覚障害の増悪、同歩行障害等の症状が出現しあるいはそれが悪化した(但し、その具体的態様は争いがある。)。

(2) これに対し、浣腸及び導尿の実施、排尿調節剤の投与等がなされる一方、右症状の悪化及び脊髄の病変の鑑別のため、胸椎断層エックス線(以下「X線」と表示する。)写真撮影、眼底検査、腰髄のシーテイー(以下「CT」と表示する。)検査等が実施されたが、いずれも異常は認められなかった。

これらの諸症状及び諸検査の結果を総合して、原告はいわゆる横断性脊髄炎であるとの診断がなされたが、その原因については確定診断がなされないまま、対症療法として抗炎症免疫抑制剤であるプレドニンの投与が開始され、これにより急激に悪化していた前記諸症状に一定の軽快がみられた。

しかし、依然として原告には腹部以下の知覚障害、下肢筋力低下及び膀胱・直腸障害等の症状がみられたため、同年七月七日には、両下肢の機能回復を目的とするリハビリテーションが開始された。また同時に、原因の検索のための検査が継続され、第五胸髄前後の拡大CT検査、悪性腫瘍の鑑別を目的とするガリウム・シンチグラム検査、C反応性タンパクの検査等が実施されたが、いずれも異常はなかった。この過程で、前田医師から同じく悪性腫瘍の鑑別を目的とする脊髄造影検査(以下「ミエログラフィー検査」という。)を受けるよう夫を通じて原告に対して話がなされたが、結局実施されないままとなった。

(3) これらの診断治療の結果、原告の諸症状は改善に向かっているとの判断がなされ、原告は昭和五八年七月二五日、医大病院を退院した。

(三) 第二回目の入院

原告は、同年九月一日、息切れを主訴として医大病院第二内科に緊急入院した。原告には頻脈、脈拍不整等の症状がみられ、諸検査の結果発作性心房細動との診断がなされた。投薬、経過観察の結果、経過は良好であったため、原告は、同年一〇月二〇日、医大病院を退院した。

3  東大病院における原告の診療経過

原告は、昭和五九年七月一九日、医大病院の前田医師の紹介で東大病院整形外科に入院し、同月二三日、左膝関節固定術の手術を受けた。その後、原告は、都立台東病院においてリハビリテーション等の治療を受けていたが、知覚鈍麻、歩行障害等の症状に改善がみられず、起立及び歩行ができない状態であったため、同年一一月一二日、両下肢麻ひの精査のため東大病院整形外科に再入院した(この経過について、〈書証番号等略〉)。

同整形外科において、同月一九日にミエログラフィー検査が実施され、その結果髄内腫瘍が強く疑われたため、原告は、同月二二日、同病院脳神経外科に転入院した。諸検査の結果、髄内腫瘍の存在が確認され、同年一二月一一日及び昭和六〇年四月三〇日の二回にわたり、椎弓を切除して腫瘍を摘出する手術が行われた。腫瘍は、程度二の星細胞腫であった(この経過について、〈書証番号等略〉)。

その後、原告は、同年七月六日から同年一一月二一日まで、東大病院放射線科において放射線療法を受けた後、リハビリテーションを目的として、国立療養所村山病院に転院した。転院時の原告の症状は、下肢対麻ひ、下半身の知覚障害、膀胱・直腸障害等であり、歩行は不能であった(この経過について、〈書証番号等略〉)。

4  原告の現在の症状

原告は、昭和六二年七月一二日、国立療養所村山病院を退院したが、現在も右と同様の状況で両下肢機能は全廃、胸部以下の重度の知覚障害、しびれ感、排尿障害及び排便障害等がみられる(この点について、〈書証番号等略〉)。

5  原告と被告との診療契約

原告は、昭和五七年三月一日、医大病院への入院に当たり被告との間で、医大病院において、原告の訴える病状について現代医学の知識及び技術を駆使してその原因を速やかにかつ的確に診断したうえ適宜の治療行為を行うことを委託し、被告はこれを受任する旨の準委任契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した。

三争点

本件においては、1 被告の責任原因すなわち診療契約上の債務不履行の有無、2 これと損害の発生との因果関係すなわち不適切な診療行為による症状の発生または悪化の有無、3 損害の範囲及び損害額について争いがある。

以下、争点毎に双方の主張の主たる点を摘示する。

1  被告の責任原因(診療契約上の債務不履行の有無)

(一) 原告の主張(債務の不完全履行)

(1) 腰椎穿刺による馬尾神経の損傷

医大病院の医師は、髄液を採取するための腰椎穿刺に際し、馬尾神経の存在するくも膜下腔まで穿刺針を刺入するのであるから、穿刺針により馬尾神経を傷つけないよう万全の注意を払って髄液を採取すべき本件診療契約上の義務があった。

しかし、石田医師は、これを怠り、原告から髄液の採取を試みた際、第四腰椎と第五腰椎の間から穿刺を開始したものの、技量未熟のため、本来なら一〇分前後で髄液の採取が終了するところ、三五分程かけてもその採取ができず、その間何度となく穿刺を試みるうちに穿刺針で馬尾神経を損傷した。

(2) 脊髄腫瘍発見のための検査義務違反

医大病院の医師は、入院中の原告の症状が脊髄(髄内)腫瘍の初期ないし中期の典型症状であったから、脊髄腫瘍の診断について最も基本的かつ有力な検査方法であるミエログラフィー検査等、脊髄腫瘍の確定診断のために必要かつ十分な検査を行うべき義務があったのに、次のとおり、この義務に違反した。

① 脊髄腫瘍は、通常緩徐に発症し、特に良性腫瘍では数か月から、ときには二、三年かかって徐々に進行する。その症候は、自覚症状の初期症状として、何らかの形の疼痛で発症するものが大多数を占め、疼痛は背筋を縦に走る。初期には運動障害を訴える者は少なく、訴える場合もその程度は軽度で、手指の巧緻障害、下肢のつっぱった感じ、スリッパが脱げ易い、階段の昇りよりも降りに多少の障害を伴うなどの下肢の痙直による症状を訴えることが多い。また、脊髄腫瘍の中期症状としては、運動障害を訴える者が最も多く、異常感覚がその次に多い。この時期には疼痛を訴える者はむしろ減少する。膀胱・直腸障害も始まる。運動障害は、この時期には明らかに脱力となり、痙性の歩行障害、上肢の脱力等を訴える。異常感覚は、初期症状にあげたものの程度が強くなる。膀胱・直腸障害としては、便秘がちとなり、尿が出にくく、「力まないと出ない。」と訴える者が多い。

また、脊髄腫瘍の他覚徴候(神経根症状)には、前根症状と後根症状がある。前根症状としては、その根によって支配される筋肉に、筋萎縮、線維束攣縮弛緩性の筋力低下又は麻ひ、腱反射の減弱又は消失等が現れる。後根症状としては、その根によって支配される領域に根性疼痛、障害された領域の感覚鈍麻又は消失、感覚異常等が現れる。

脊髄症状には、その髄節の障害と伝導路の障害による症状とがある。髄節症状の場合は、前角、後角の障害は根障害によって出てくる症状とほとんど差がない。伝導路症状の場合、運動障害、感覚障害と膀胱・直腸障害が発現し、運動障害として、障害レベル以下の痙性の運動麻ひと腱反射の亢進、病的反射(バビンスキー反射等)の出現等があり、感覚障害として、障害レベル以下の深部感覚、温・痛覚、触覚の低下又は消失等が現れる。

原告の入院中の次のような諸症状は、右の脊髄腫瘍の典型症状に該当するものであり、医大病院の医師は当然に原告における腫瘍の可能性を疑うべきであった。

ⅰ 疼痛

原告には医大病院入院時から腹部及び下肢に疼痛が存し、昭和五七年三月八日、腰椎穿刺後には左臀部から左大腿部にかけて激痛が発生し、痛みは左右大転子部に拡がった。

これらの痛みとしびれは、二、三日後には背部、腰部、左右大腿部の後面及び左下腿まで拡がり、「下肢つっぱり感」(三月一二日)等も訴えるようになった。「激痛」というほどのものは数日で和らぎはしたものの、腰から両下肢にかけての疼痛は、全体的には軽快方向をたどったが、退院時まで継続した。

ⅱ しびれ感・感覚異常

原告は、昭和五七年における医大病院入院時の一〇年以上前からみぞおちのあたりの感覚が鈍く、右入院時には、胸部、腹部、左大腿上位部まで知覚鈍麻があることを自覚していた。

本件腰椎穿刺後は、原告は、強い痛みを伴った背部から下肢にかけての強いしびれ感を訴えるようになり、それは、穿刺の四日後には、背部から腰部痛、両大腿後部のしびれないし痛み、左下肢後面の痛みないししびれとなり、一週間位のうちに次第に「下肢のしびれ感」に収束していった。このしびれ感は、その後も消えることなく継続した。

また、知覚異常は、退院時まで(退院後も)継続している。触覚等は悪化の傾向にあり、触覚、痛覚、振動覚低下のみならず、途中からは温度覚、位置覚、深部覚の低下もみられた。

ⅲ 運動障害

原告には医大病院初診時より歩行障害・真っ直ぐ歩けないなどの運動障害があった。また、本件腰椎穿刺直後は、腰部・背部の激痛としびれのため立つことはもちろん、ベッドから起き上がることもできない程であった。歩行障害は、その後若干は軽快したものの継続し、医大病院を昭和五八年七月二五日に退院する時には装具が不可欠な状態であった。下肢筋力低下は、退院時まで一貫していた。また、入院時よりバビンスキー反射が認められていたほか、昭和五七年四月一三日から同年五月二八日にかけて腱反射の異常亢進がみられるようになった。

ⅳ 膀胱・直腸障害

本件腰椎穿刺後、原告は、便意が突然消失し、排尿も全くなくなってしまった。排便については、昭和五七年三月八日には浣腸等をしても全く効果がなく、翌九日には便意が回復し、一〇日には多量の排便があったものの、その後も排便困難は継続した。排尿については、同年三月八、九日と全く自排尿がなく、一〇日から極く少量の自排尿がみられるようになったが、膀胱内圧測定の結果、無緊張性膀胱との診断を受け、導尿が不可欠であった。その後、一定の軽快があるが、排尿困難はその後も継続した。

ⅴ 陰部の知覚障害

原告には、本件腰椎穿刺後、陰部の知覚障害が発現し、その後だんだん増悪していった。

② 医大病院の医師は、脊髄腫瘍の疑いをある程度持っていたからこそCT等の検査を行ったのであり、その中には腫瘍の可能性を考え、ミエログラフィー検査を行うべきであるとの意見の者もいた。

本件腰椎穿刺の結果では、終圧が測定不能、蛋白質について二二〇mg/dlと軽度の上昇があり、細胞数は正常であった。これは、蛋白質量が正常又は軽度上昇(一〇〇〜二〇〇mg/dl)し、細胞数は増加しないなどの脊髄腫瘍の典型症状と一致し、脊髄腫瘍の徴候を示すものであった。

③ また、本件腰椎穿刺後の強い脊髄ショック症状は、髄液採取による髄圧の減圧により、当時原告に存在していた脊髄腫瘍による神経圧迫が高まるなどして、その症状が激烈に発現し、その後、髄液が生産されて髄圧が回復するとともに、その時点での腫瘍の状態に見合った脊髄症状に落ちついたものと考えられる。右脊髄性ショック症状の原因が、被告の主張するように本件腰椎穿刺における神経の損傷でないとすれば、その原因は脊髄腫瘍の存在をおいて他に考えられないはずである。

④ さらに、医大病院の医師は、脊髄炎を疑って長期にわたりプレドニンを大量に投与したにもかかわらず、原告の症状は継続したのであるから、その点でも脊髄腫瘍を考慮するべきであった。すなわち、腰椎穿刺直後の激烈な症状がある程度収まった後においても、原告には下肢の疼痛及びしびれ感、知覚異常、「進行性」の歩行障害、下肢近位筋力の低下、膀胱・直腸障害等、初期ないし中期の脊髄腫瘍の典型症状が現れており、全体として、原告の症状は、穿刺直後の異常な症状が改善されたものの、入院時と比較して全体的には段々に進行していたと考えることができるから、一時的に悪化した症状に軽快がみられたとしても、脊髄腫瘍の可能性を除外してよいといえるような状況にはなかった。

⑤ 脊髄腫瘍は早期治療が何よりも必要であり、進行性の脊髄症状を呈する症例については、これを疑って検索を進めることが最も大切とされている。

それゆえ、医大病院の医師は、脊髄腫瘍が疑われ、その診断に疑問のあるときには、クエッケンステットテストを含む髄液検査、脊髄単純X線写真撮影、ミエログラフィー等の諸検査を行って腫瘍の存否を確定すべき義務があった。とりわけ、ミエログラフィー検査は、脊髄腫瘍の最も重要な診断方法であり、脊髄腫瘍の存否、正確な部位、硬膜内・外の鑑別、髄内・外の鑑別等を知るのに最も有力かつ基本的な検査である。

原告の前記各症状、検査結果、脊髄ショック、治療経過等からすると、脊髄腫瘍を疑って検索を進めることが最も大切であり、脊髄腫瘍の診断に最も基本的かつ有効とされるミエログラフィー検査は不可欠の検査であったというべきであるし、これを行っていれば、脊髄腫瘍を発見しえたことは明らかである。

⑥ 以上のとおり、原告は医大病院への入院時既に脊髄腫瘍に罹患しており、その旨の疑いをなしうる症状を呈していたにもかかわらず、医大病院の医師は、これを横断性脊髄炎と誤診し、脊髄腫瘍の存否の鑑別診断に必要なミエログラフィー検査を行わず、腫瘍を発見できなかったために、原告の脊髄腫瘍に対する早期治療の機会を失わせ、前記のとおりの障害を与えた。

(3) 説明義務違反

仮に、ミエログラフィー検査の実施に原告の同意が必要で、原告が医大病院において同検査を受けることを拒絶していたとしても、医大病院の医師には、同検査についての同意を求めるに際し、原告に対し、脊髄腫瘍の可能性、それによる症状の進行及び脊髄腫瘍の診断には同検査が必要不可欠であることを十分説明すべき義務があったのに、これに違反した。

すなわち、医大病院の医師は、ミエログラフィー検査の方法については説明したが、脊髄腫瘍の可能性、それによる症状の進行、脊髄造影が必要不可欠なことについては全く説明しなかった。特に、原告は、医大病院の医師の手技が拙劣であったために、本件腰椎穿刺において激痛、長時間の検査等を経験し、その直後の症状からも腰椎穿刺に対するこだわりがあり、主治医から夫を介して同検査をしてみないかと一度言われたのに対してこれを拒否したのであるし、原告の症状、経過等からすれば、同検査は当然なされるべき不可欠の検査だったのであるから、医大病院の医師としては、原告に対し、脊髄腫瘍の可能性、その危険性及びミエログラフィー検査の必要性を十分に説明して、是が非でも同検査を受けさせなければならなかった。

現に原告は、転院先の東大病院では、脊髄腫瘍の可能性及び脊髄造影の必要性について説明を受け、納得したうえで同検査を受け、手術を受けているのであるから、医大病院においてもこうした丁寧な説明があれば、原告が同検査に応じた可能性は十分にあった。

したがって、医大病院の医師には、原告に対し脊髄造影の必要性を十分に説明せず、ミエログラフィー検査を実施しなかったために、原告の髄内腫瘍を発見できず、同腫瘍の摘出手術の機会を逸せしめた債務不履行があった。

(4) 転院義務違反

また、医大病院の医師は、仮に、原告に対し十分に右の説明及び説得を行っても、原告がミエログラフィー検査を拒否するのであれば、原告に同検査又はCT検査を受けさせるようにするため、原告を転院させるべき義務があったのに、これに違反した。

現に、原告は、前記のとおり、後に旭山記念病院においてCT検査、東大病院においてミエログラフィー検査をそれぞれ受けているのであって、医大病院の医師が早期に右義務を履行していれば、原告はミエログラフィー検査を受けていた可能性が十分にあった。

したがって、医大病院の医師には、原告について転院措置を取らなかったために、原告の髄内腫瘍を発見できず、同腫瘍の摘出手術の機会を逸せしめた債務不履行があった。

(二) 被告の主張(債務の本旨に適した履行)

(1) 本件腰椎穿刺による馬尾神経の不損傷

本件腰椎穿刺によって原告の馬尾神経を損傷することは、馬尾神経の構造上、それ自体物理的にありえないし、少なくとも原告の主張する各症状、障害が発現するような形で損傷することは、穿刺針の刺入位置と各障害と関連する馬尾神経の位置関係上考えられない。

すなわち、本件腰椎穿刺は、第四腰椎と第五腰椎との間のくも膜下腔に通常の注射針の先より鈍な構造となっている穿刺針を刺入して行ったものである。この部位を通っている馬尾神経は、八対一六本で、直径が約二mm程の内膜で覆われた多数の細かい神経が束となり、それが周膜で覆われて弾力性に富み、また、腰髄及び仙髄と椎間孔との間を十分余裕のある長さで繋がり、かつ、くも膜下腔の髄液中を十分な空間的余裕をもってすだれのように浮遊している状態で存在している。したがって、穿刺針が馬尾神経のいずれかに触れたとしても、穿刺針が本件腰椎穿刺のようにゆっくりした速度で慎重に刺入されている限り、馬尾神経の方が針から横にずれるため、馬尾神経を損傷することはない。

原告は本件腰椎穿刺の際に激痛が生じたと主張するが、右の激痛は、いわゆる放散痛といわれるものであり、日常の医学診療では穿刺針がくも膜下腔に入ったことの証左として扱われているものである。

また、原告の主張する鼠径部から足底に及ぶ疼痛、大腿から下腿後面にかけての表在知覚障害、下腿筋の運動障害、足下垂、筋萎縮、尿閉及び陰部の知覚障害の各障害は、馬尾神経の構造及び部位等からして、第一二胸髄から第四仙髄までの神経根を対とする二〇本の損傷があって始めて発症する性質のものである。しかし、本件腰椎穿刺は、第四腰椎と第五腰椎との間で行われたものであって、この部位より上位の位置にある椎間孔から出入りしている第一二胸髄から第三腰髄までの四対八本の馬尾神経根を損傷することは物理的にありえない。

(2) 検査義務の履行

医大病院の医師は、以下のとおり、原告の当時の症状等について的確に判断した上、脊髄腫瘍の可能性も考慮に入れ、右症状等に照らし診断治療に必要な検査義務を尽くし、債務の本旨に適した履行をした。

① 医大病院の医師は、原告の入院中、次のとおり必要な諸検査を尽くした。

昭和五七年三月八日 腰椎穿刺

同年三月一六日

胸椎断層X線写真撮影

同年三月一九日

眼科による多発性硬化症の診察及び検査

同年四月二七日 腰髄のCT

同年八月三日 第五胸髄の拡大CT

同年八月六日

放射線科によるガリウム・シンチグラム検査(悪性腫瘍の検査)

② 右諸検査の結果は、腰椎穿刺で髄液にタンパク質及びグロブリンの軽度の上昇がみられたほかは、いずれも異常はなかった。

また、本件腰椎穿刺の際、髄液圧の終圧が測定不能で、脊髄の閉塞を疑う余地があったが、クエッケンステット試験により脊髄管が閉塞していないことを確認した後に髄液の採取を開始しており、右終圧の測定が不能であったのは、髄液の流れが遅く、穿刺針を抜き気味にしながら髄液を採取したことによるのであり、終圧がゼロであったわけではない。したがって、終圧の測定が不能であるからといって、直ちに脊髄腫瘍を疑うべきであったということはできない。

③ 他方、ミエログラフィー検査は、腰椎穿刺により脊髄のくも膜下腔に造影剤を注入してX線写真撮影を行う脊髄腔の造影法であり、脊髄腫瘍の有無を判断するうえで最も有力な補助診断法ではあるが、造影剤の副作用によって、頭痛、嘔吐、痙攣、意識障害等を起こすことがあるなど、患者の身体への侵襲が非常に大きい検査である。そのためこれを実施するかどうかについては、患者の自己決定権が最大限に尊重されなければならず、医師の説明を受けたうえでの患者の同意なくしては行いえないものである。

④ 医大病院の医師は、原告の病巣の可能性の一つとして脊髄腫瘍を考えてはいたが、脊髄腫瘍は比較的発生頻度の低い病気であること、退院時における原告の症状はほぼ入院時と同じくらいに好転していたこと、原告が指摘する脊髄腫瘍の初期ないし中期の典型的症状のうちのいくつかは、医大病院入院時の二ないし三年前又は一〇年も前から出現していた症状であり、一般的な脊髄腫瘍の特徴である病状の進行期間(数か月ないし二、三年)及び器質的疾患における不可逆性に該当しないことから、脊髄腫瘍は、可能性の一つではあったが、直ちにミエログラフィー検査を実施して脊髄腫瘍の確定診断を求める状況ではなかったと考えていた。

原告の症状が杖を突きながらでも歩いて退院できるまでに好転していたことからすると、単に脊髄腫瘍の可能性を検索し、確定診断をすることのみのために、患者に対する侵襲の大きいミエログラフィー検査を実施する必要性はなく、したがって、医大病院の医師にはミエログラフィー検査を実施すべき義務はなかった。

⑤ 原告の主治医である前田医師は、原告の夫に対し、本件腰椎穿刺の際に穿刺針で神経を損傷したということはありえないし、原告の現在の症状は、もともと脊髄に癒着性の病気があったところに、髄液を抜いたため一過性の圧変化が起こったことによるものと説明し、是非確定診断を求めたいのであれば、再度脊髄に針を刺すことにはなるが、ミエログラフィーという検査をしてみてはどうかと勧めた。

このように、医大病院の医師は、原告に対し、脊髄腫瘍の可能性及び危険性並びに脊髄造影の必要性を十分説明して、検査を受けるように勧めた。しかし、原告は、諸症状が本件腰椎穿刺による馬尾神経の損傷により生じたと思い込み、医大病院の医師に対して強い不信感を抱き、同医師らの説明・説得を受け入れることなく、ミエログラフィー検査の実施に対する同意をしなかった。このような信頼関係のない状態では、前記の程度以上の説明及び説得は無意味であるし、当時原告の症状が好転していたことなどの状況を考慮すると、同検査を実施すべき必要性はなかった。

⑥ 脊髄腫瘍の確定診断のために、ミエログラフィー検査が当時最も有力な検査方法であったことは否定できないが、同検査は被験者に対する侵襲も大きい。他方、原告の症状は、当時、医大病院における治療により好転しつつあったので、即時に右検査を実施しなければならない状況にはなかった。したがって、医大病院の医師にミエログラフィー検査を実施すべき義務はなかった。

⑦ いわゆる横断性脊髄炎とは、脊髄が何らかの病変によって障害されその結果発生する脊髄性の症状をいうのであるが、右の病変としては炎症、腫瘍、外傷等がある。すなわち、脊髄炎とは厳密には脊髄の炎症性疾患をいうが、その原因は、必ずしも炎症性のものに限られず、血管障害、圧迫(腫瘍を含む。)、アレルギー、中毒、外傷等であることもあり、その原因を確定することは困難な場合が多い。

原告の症状についても、医大病院の医師は、その原因が不確定であったが、脊髄の障害が横断的であったので横断性脊髄炎と診断したのであり、これは、原告の主張するように炎症性のものに限定されず、脊髄の圧迫症状を呈する諸疾患及び腫瘍も含めた原因によるものとの意味の用法である。したがって、医大病院の医師らが原告の病名をいわゆる横断性脊髄炎と診断したことは、誤りではなかった。

(3) 説明義務の履行

医大病院の前田医師は、先に述べたとおり、原告の夫に対し、原告の症状の原因及び脊髄の病変の確定診断にはミエログラフィー検査が必要であると説明し、同検査の受検を勧めたが、原告からその実施に対する同意は得られなかった。したがって、医大病院の医師は、当時の状況に即し、医師としての説明義務を十分に果たしており、ミエログラフィー検査に関する説明義務の違反はなかった。

(4) 転院義務の不存在

原告は、医大病院に入院中に同病院の医師に対する信頼を失い、少なくとも入院時程度にまで症状が回復するまでは同病院に入院していたいとして、リハビリテーションを目的とする転院も拒否したのであって、ミエログラフィー検査の受検を目的とする転院についても、原告がこれに応じることは考えられない状況であった。

すなわち、原告が、前記のとおり、脊髄造影を拒否したため、医大病院では、いわゆる横断性脊髄炎に対しプレドニン等の投与を続け、機能回復のためのリハビリテーションを行うなどの総合的治療を行った。その結果、原告の症状は、昭和五七年一〇月四日には、リハビリテーションによる機能回復の治療を第一として、リハビリテーション中心の病院での治療が適当であると判断されるまでに回復した。そこで、医大病院の医師は原告に対し慈啓会病院への転院を勧めたが、原告は、杖を使わなくても歩けるくらいになるまで医大病院に入院していたいと希望し、転院には応じなかった。また、当時の道内の医療水準を考慮すれば、いわゆる横断性脊髄炎の総合治療のための適当な転院先はなかったし、原告の症状はリハビリテーションによる機能回復が第一の治療方法となる程順調に改善していたことからすると、当時患者の意思に反してまで原告を転院させるべき状況にはなかった。

したがって、医大病院の医師には、原告の主張するような転院をさせるべき義務はなかった。

2  因果関係

(一) 原告の主張

(1) 本件腰椎穿刺後に生じあるいは増悪し、原告に現在みられる症状のうち次の症状は、本件腰椎穿刺の際、原告の馬尾神経が損傷されたことによって起こったものである。

なお、本件腰椎穿刺によって損傷された可能性のある神経は、第四腰髄以下のものであるが、たとえば、第四腰髄の神経一つを損傷した場合でも、それが他の神経とともにまとまり、関与している大腿神経(第一腰髄ないし第四腰髄)又は閉鎖神経(第二腰髄ないし第四腰髄)の支配領域に影響することがありうる。

① 両下肢の機能の全廃

股関節、膝関節、足関節等すべての関節機能が消失している。原告は、昭和五九年九月、プレドニンの服用中止のころから歩行不能となり、終日ベッド又は車椅子による生活を強いられている。

② 排尿障害及び排便障害

いきんだり、腹を叩いてやっと排尿・排便をする状態にある。

③ 両下肢の知覚障害、しびれ感等

④ 陰部の知覚障害

(2) 右のような原告の症状が馬尾神経の損傷によって生じたものであることは、次のことから明らかである。

① 本件腰椎穿刺において、原告は激痛を感じたが、これは馬尾神経の損傷によるものである。

② 右のような原告の症状は、第四腰髄以下の神経支配領域における症状である。

③ 本件腰椎穿刺前後の原告の症状を対比すると、次のとおり新たな症状の発現、既存の症状の飛躍的悪化等があった。

ⅰ 激烈な鼠径部から足底に及ぶ疼痛の発生

原告は、二歳の時に罹患した左膝結核性関節炎の既往症を有しており、左膝がやや曲がらない状態であった。原告の本件腰椎穿刺前における右膝の痛み、左膝関節痛、昭和五七年三月二日の歩行時の下肢の痛み等は、いずれも右関節炎の影響によるもので、これ以外に本件腰椎穿刺前に原告が下肢の疼痛を訴えたことはない。

ところが、同年三月八日の本件腰椎穿刺の際に左下肢に痛みが走ったのをはじめ、同日一五時三〇分には、左腰部から下肢にかけてのしびれ感及び疼痛並びに左臀部から左大腿部にかけての「激痛」があった。この激痛等は本件腰椎穿刺前にはみられなかったものである。

ⅱ 便意の消失(排便障害)

原告は、昭和五六年の一二月下旬頃より下痢と便秘が交互に出現するなど排便に悩んでいたが、本件腰椎穿刺前に便意がなくなったことはない。

ところが、原告は、本件腰椎穿刺後、突然、便意が消失して腹部が膨満するようになった。例えば、昭和五七年三月八日には、グリセリンを入れたりしたが、排便はなくグリセリンのみが排泄されてしまうという状況であり、同月九日には、膿汁様のものを排出したり、便意が回復したりしているが、その後も排便が困難であるという状況が続いた。

ⅲ 排尿障害の発生

原告は、本件腰椎穿刺後、排尿が全くなくなった。穿刺前に最後の排尿があった昭和五七年三月八日午前七時から同日午後六時まで全く排尿がなくなってしまったため、導尿が指示された。翌九日も尿意がなく、自排尿も全くなかったため、三回にわたり導尿を実施せざるをえない状態で、同月一五日、膀胱内圧測定の結果、無緊張性膀胱との診断を受けた。

同月一〇日の自排尿は、看護婦の勧めによるもので、第一回目(午後三時三〇分)は極く少量、第二回目は一〇〇ml程度と極く僅かなものであった。一二日には自排尿があったが、尿意はなく、二回にわたり導尿が実施された。

同月一三日から一四日にかけても、自排尿及び導尿により排尿が行われたが、看護記録には「尿の勢い悪い。朝は少し良いが、昼間はタラタラー排尿時しみる感じ」と記載されており、排尿が十分に行われなかったことを示している。

以上のとおり、原告の膀胱には本件腰椎穿刺を境として顕著な変化があった。

ⅳ 知覚障害の悪化及び部位(両膝以下への)拡大

原告の知覚鈍麻は、医大病院への入院時、胸部、腹部及び左大腿上部位までであり、その知覚の程度も場所により区々であった。しかし、右知覚の鈍麻は、全体として、余り気にならない程度のものであり、原告は日常生活に何らの不便も感じないで過ごしていた。

これに対し、本件腰椎穿刺後には、右脚も含めて両膝に知覚がなくなり、スリッパをはいているのに気づかないままベッドに入ったりするようになった。

また、原告は、本件腰椎穿刺前には「しびれ」という程強い知覚障害はなかった。医大病院での記録を見ても、本件腰椎穿刺以前においては、カルテ上では、「下腿のしびれ感」等の記録が見られるものの、看護記録上にはそのような記載はない。原告には、日常、他人に訴えざるをえないような強いしびれ感はなかった。

しかし、本件腰椎穿刺後の「しびれ感」は、下腿に鉛を貼りつけたような重苦しい、痛みを伴った強いしびれ感であった。原告は、穿刺後、痛みを伴う強いしびれ感を連日訴えており、穿刺前と比べて知覚障害の程度が大きく異なっている。また、穿刺後に出現した「しびれ」は「左腰部〜下肢」あるいは「背部〜下肢」にかけての「しびれ」であって、穿刺前と比して、その部位を明らかに異にしている。

右の「しびれ」の程度、部位は診療記録上では次第に軽快の傾向が見られたように窺えるが、いずれにせよ、本件腰椎穿刺の前後では、原告の運動障害の程度及び範囲は大きく異なっている。

ⅴ 下腿筋の運動障害、筋萎縮及び歩行障害の増悪

原告は、本件腰椎穿刺以前にも「歩行障害」、「真っすぐ歩けない」などの症状があったが、これは、入院の「一〇日程前(から)悪化」した膝関節痛による歩行障害によるものである。

他方、穿刺後の歩行障害は、同月八日以降に出現した「起きることも立つことも出来ない」「強い」「背部痛」及びその軽減後も残った「背部〜下肢」のしびれによるものであって、これは穿刺前の「歩行困難」とは明らかに内容を異にするものである。

また、原告は、昭和五七年三月一日の入院以前においては、何らの補助器具もなしに日常生活に何の支障もなく歩行していたが、本件腰椎穿刺後に「起きることも歩くことも出来な」くなり、長期のリハビリテーションの後にしてようやく「装具により独歩」できるまでに回復したという強度の歩行障害が、本件腰椎穿刺の実施を境にして発現した。

ⅵ 陰部の知覚障害の発現

陰部の知覚障害は、本件腰椎穿刺以前には全くなかったが、本件腰椎穿刺後に発現し、その後だんだん増悪した。

(3) (1)(2)記載の症状に加え、右足のふくらはぎから大腿部にかけて痛みがあり、車椅子及びベッドの上に長時間にわたって同じ姿勢でいるため、臀部に褥瘡が発生し、排尿及び排便に伴い脱肛が生じているなどの原告の現在の各症状は、すべて髄内腫瘍の発見及び手術の遅れにより発生したものである。

すなわち、髄内腫瘍は、神経膠腫(上衣腫、星細胞腫)がもっとも多く、二年ないし五年の長い経過をたどる。原告の髄内腫瘍は、既に初期ないし中期までに発達していたのであり、医大病院でのミエログラフィー検査等の検査が行われていれば、容易に発見できたはずであるから、同検査がなされなかったことにより少なくとも二年程発見が遅れた。

医大病院に入院した昭和五七年の段階であれば、原告の脊髄症状は未だ初期ないし中期の程度にとどまっており、その腫瘍も東大病院における手術の際のものよりもはるかに小さく、かつ範囲も限られていたはずである。特に、原告の脊髄腫瘍は、星細胞腫という神経膠腫の中で比較的良性で、浸潤性が強くなく、しかも原線維性及び毛様細胞のもので正常組織をよく保ち、また、そのグレードも一ないし二であったから、摘出手術をすれば予後は比較的よいものであった。しかし、東大病院における手術の段階では、発見の遅れのため、既に、原告の脊髄腫瘍は第四胸椎から第一腰椎にかけて存在するあまりに巨大なものに肥大していたため、手術には成功したものの、大きく機能回復するまでには至らなかった。

右の手術の一年半ないし二年前である医大病院入院当時に、原告の脊髄腫瘍が発見され、その段階で摘出手術が行われていたならば、当時既に手術用顕微鏡による手術は確立しており、脊髄腫瘍が右の手術時よりもはるかに小さかったのであるから、はるかに容易かつ完全に近い摘出手術が行われ、かつ予後もよかったはずである。

原告は、脊髄腫瘍の発見及び手術が遅れたことによって、無為な入・通院による精神的苦痛を被ったことはもちろん、腫瘍の増大化とそれに伴う神経障害の増悪により、東大病院における手術後も回復不能な、現存の後遺障害を残す結果となった。

(二) 被告の主張

(1) 原告が本件腰椎穿刺後に生じた症状として主張しているもののうち、便意の消失及び排尿障害の原因となっている膀胱・直腸障害、知覚障害(大腿から下腿にかけての表在知覚障害)並びに下腿筋の運動障害、筋萎縮及びこれによる歩行障害は、いずれも医大病院への第一回目の入院時既に存在していたものであって、いわゆる横断性脊髄炎によるものである。

確かに、本件腰椎穿刺を契機として、原告には、一時的に背腰部痛、起立及び歩行障害、尿閉等の症状がみられたが、これらはいずれも馬尾神経の損傷により生じたものではなく、本件腰椎穿刺の際の髄液の採取によって脊髄圧が下降したことにより、当時原告に存在していた脊髄の病変による神経の圧迫が顕在化したために生じたものである。右症状が短期間のうちに穿刺前の状態に復したのは、その後、髄液が生産され、脊髄圧が回復することによって神経の圧迫状態が解除されて元に戻ったためである。このことからも、これらの症状が髄液の循環動態の可逆性変化に起因することが明らかである。

① すなわち、原告は、医大病院内科初診時の昭和五七年二月二二日に第一内科の松本医師の診察を受けた際、剣状突起以下の知覚障害、下肢近位筋(大腿部の筋肉)の筋力低下、排便障害等があり、同年三月一日の医大病院入院時における石田医師の診察によって、剣状突起以下での痛覚の低下があること、両下肢の振動覚がほぼ消失していること及びバビンスキー反射は左で陽性であることが認められており、原告自らも便失禁があることを主訴している。右の診察及び検査の結果は、原告に、医大病院への入院時において、剣状突起部位(第五胸髄)での不完全な横断による運動知覚麻ひ及び膀胱・直腸障害の症状があったことを示している。いわゆる横断性脊髄炎とは、脊髄障害の一病態で、脊髄髄節の機能がその横断面で障害されることにより、障害を受けた脊髄髄節以下の運動障害、知覚障害及び膀胱・直腸障害を出現させる疾患であり、原告の前記各症状はこれに特有の症状ということができる。

② また、原告は、初診時及び入院時に便失禁があるなど、直腸括約筋障害を訴え、排尿障害を主訴していなかったが、入院時において便通が一日に一〇回くらいあり、膿汁、血液、粘液を伴い、失禁することがあったこと、入院後においてもしばしば腹部膨満感を訴えていたことなどからして、初診時及び入院時から排便だけでなく排尿障害をも潜在的に有しており、横断性脊髄炎による膀胱括約筋障害も併せ有していた。

さらに、本件腰椎穿刺後、原告には左足が何かの拍子に背屈するという明らかに脊髄そのものに障害がなければ生じない症状があり、知覚障害も、膝蓋腱反射が正常であり、左右のアキレス腱反射が正常であることから、根性のものではなく、脊髄性のものであった。

③ したがって、原告が本件腰椎穿刺による馬尾神経の損傷により生じたと主張する障害のうち、原告が医大病院をいったん退院した昭和五八年七月二五日において存在した障害、すなわち、知覚障害、歩行障害(運動障害)及び軽度の膀胱・直腸障害は、本件腰椎穿刺前の医大病院初診時及び入院時から存在していたものであり、また、右の症状の現れ方から脊髄性の障害であると考えられ、いわゆる横断性脊髄炎と診断されたものであって、末梢神経である馬尾神経の障害によるものではない。

各症状毎に述べると、次のとおりである。

ⅰ 鼠径部から足底に及ぶ疼痛について

原告には医大病院入院時から既に腹部及び下肢に疼痛が存し、その部位は時間とともに変化し、また、本件腰椎穿刺後に生じた背腰部痛は、その出現の数日後に改善した一過性のものであった。

ⅱ 大腿から下腿後面にかけての根性の表在知覚障害について

原告の知覚障害はその部位及び程度が時間とともに変化したが、原告には初診時及び入院開始時から既に剣状突起以下の知覚障害が存在していた。

ⅲ 下腿筋の強い運動障害について

原告には、歩行障害が初診時の一〇年程前から出現しており、医大病院初診時から既に運動障害があった。

ⅳ 足下垂について

原告は、本件腰椎穿刺後の昭和五七年一〇月二六日に左足外反尖足傾向にあり、したがって足下垂の傾向にあったが、これは、本件腰椎穿刺によるものではなく、横断性脊髄炎の進行によるものである。

ⅴ 筋萎縮について

本件腰椎穿刺から八か月を経過した昭和五七年一一月二七日、右に比べ左下肢の筋萎縮(右四二cm、左40.8cm)があったが、この筋萎縮は、原告が二歳時に罹患した結核性膝関節炎による発育不全、原告が昭和二七年に受けた左膝関節の手術等の影響によるもので、軽度の筋萎縮が医大病院初診時から存在していた。

ⅵ 尿閉について

本件腰椎穿刺後に尿停滞が生じたが、本件腰椎穿刺の二日後の昭和五七年三月一〇日には自排尿が認められ、症状出現の九日後である同月一七日には導尿が不要となり、自排尿になっており、原告に認められた尿閉は一過性のものであった。右排尿障害は、本件腰椎穿刺の際の脳脊髄液の採取により生じた脳脊髄液の循環動態の可逆的変化に起因する。

また、昭和五八年七月二二日の退院時には軽い膀胱・直腸障害が存在した。

ⅶ 陰部の知覚障害について

原告には、医大病院の初診時から剣状突起以下の知覚障害があった。

ⅷ 自力での歩行困難について

原告には医大病院初診時から既に歩行障害があり、本件腰椎穿刺後に起立及び歩行障害は増悪したが、本件腰椎穿刺の三日後には改善した一過性のものであった。また、昭和五八年七月二五日の退院時には、原告は装具により独歩で退院している。

(2) 原告の症状と脊髄腫瘍の発見及び手術の遅れとの間には因果関係がない。

① 医大病院入院後早期に脊髄腫瘍の存在が判明していたとしても、原告の脊髄腫瘍は、髄内にあって、その摘出手術の予後は一般的に必ずしも良好ではないことや、原告が医大病院に入院していた昭和五七年から昭和五八年ころには同病院にはMRI検査も導入されておらず、手術用顕微鏡による手術も未だ確立されていなくて手術自体にも困難が伴ったことなどから、原告に対し当然に手術を実施していたということはできない。

② 原告の脊髄腫瘍は、星細胞腫という浸潤性の髄内のもので、手術をしても全摘出は不可能である。手術後に残った浸潤性の髄内腫瘍は、再発及び他部位への進展のおそれがあり、かつ手術後の予後は悪く、神経組織に対するある程度の減圧効果しか期待できない場合が多い。原告の場合も、腫瘍が上部に進展しつつあり、これを放置しておくと呼吸困難となる恐れがあったために手術を実施し、その防止効果はあったが、表面的な症状はむしろ悪化した。

したがって、早期に手術が実施されていたとしても、原告の主張するような治療効果が得られたとは限らない。

③ このように、原告の現在の症状は浸潤性の髄内腫瘍によるやむをえないものというべきであって、原告の入院中に脊髄腫瘍が発見されていたとしても確実に早期に手術が実施されていたということはできないし、手術が行われていたとしても、原告の現在の症状が発生しなかったということもできないから、医大病院における脊髄腫瘍の発見及び手術の遅れと原告の症状との間に因果関係はない。

3  損害の範囲及び損害額(原告の主張)

(一) 損害の範囲

脊髄腫瘍の発見及び手術の遅れによる脊髄症状は、馬尾神経損傷によりもたらされた症状と比較して、より広い範囲にわたるものであり、前者を包含し、かつ現在の症状のすべてに及ぶ。

また、馬尾神経の損傷による症状に加えて、脊髄腫瘍の増悪による症状が重なった可能性がある。

馬尾神経の損傷による原告の損害は、原告の前記各症状、特に原告の歩行障害からして、原告の総後遺症の損害等級七級(労働能力喪失割合は約五〇パーセント)の少なくとも二分の一に及ぶ。

(二) 損害額

(1) 後遺症による逸失利益

二三七六万七五九五円

(2) 慰謝料 一五〇〇万円

(3) 弁護士費用 三六〇万円

(合計 四二三六万七五九五円)

第三争点に対する判断

一事実の認定

前記第二の二1ないし4の事実に〈書証番号略〉、証人石田明、同松本博之、同前田修一の各証言及び原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合して、当裁判所が認定した事実は次のとおりである。

1  医大病院における原告の診療経過

(一) 第一回目の入院経過と本件腰椎穿刺

(1) 入院までの経過

〔第一外科における初診及び診療〕

原告は、昭和四七年ころから下腿にしびれ感を感じるようになり、同じころ凍結した道路で転倒して背中を傷め美唄労災病院で検査を受けた際に、みぞおちの下辺りに知覚の鈍い部分があることに気付いた。しかし、昭和四六年に自動車運転免許を取得して以来、自動車の運転を継続するなど、日常生活には何らの支障なく過ごしていた。ところが、昭和五六年八月二九日ころ、右足の膝関節に痛みを感じ、同年九月一四日から同年一一月二八日までの間、美唄労災病院に通院して右膝変形性関節症の治療を受けた。この間、一〇月下旬ころから便秘気味となり、一二月半ば過ぎには粘液性膿性の便を排泄するようになり、同月下旬ころには便秘と下痢が交互に現れるようになった。

そこで、原告は、昭和五七年一月一九日、右膝痛に対する美唄労災病院の薬を飲んでから粘液性の便を排泄するようになったと訴えて、医大病院第一外科を受診(初診)した。

上村医師は、原告を診察し、同年二月一日にロマノスコープ検査(直腸鏡検査)を受けるよう指示した。原告は、同日、医大病院に通院し、中央検査部で第一外科の木村医師の診察及びロマノスコープ検査を受けた。右検査では、内痔核のほか、原告に特に異常な所見はなかった。

原告は、同月六日、第一外科の筒井医師の診察を受けた。同医師は、注腸バリウム検査の結果、内痔核及びS字結腸過長を認めたので、原告に対し、プロクトセジル坐薬(痔坐薬)、トランコロン(整腸剤)、アランタ(胃薬)、カマ(下剤)等を投与した。内痔核の治療は、その後の同月一二日、二〇日及び二二日にも行われた。

上村医師は、同月二二日、原告が歩行障害等についての診断治療のため他科への紹介を希望したので、第一内科宛に、左下腿のしびれ感と歩行障害を主訴とする症状について神経学的診断治療を依頼するとの紹介状を書いた。

〔第一内科における診療〕

原告は、同日、医大病院の第一内科を受診した。この時、原告は、同科の松本医師の問診に対し、既往症として、二歳の時に結核性関節炎に罹患したこと、昭和二七年に東大病院で左膝関節手術を受けたこと、二ないし三年前に胆石の手術を受けたことなどを主訴し、また、現在までの症状として、両下腿のしびれ感(左の方が右より強い。)と歩行障害が一〇年前から出現し現在に至っていること、知覚消失が二ないし三年前からあること、膿粘血便があること、全身倦怠感、吐気、嘔吐、右季肋部痛が昭和五七年二月二二日からあること、便失禁があることなどを主訴した。

同医師は、診察の結果、原告の胸腹部には異常が認められない一方、脊椎に圧痛、叩打痛があり、剣状突起以下まだら状に左右の知覚障害(痛覚の低下)があること、上肢には障害がないのに、下肢近位筋に筋力低下(右の方が左より強い。)があること、左下肢は右下肢に比較して七cm短いこと、下顎反射は正常であるのに、右の膝蓋腱反射は亢進し、両側のアキレス腱反射は低下していること(但し、両側とも病的な反射はない。)、尿道括約筋の障害はなく、排尿障害はないが、肛門には括約筋障害があることなどの神経学的所見を認めた。同医師は、原告には脊髄にレベルをもった横断症状があることから、脊髄に病変があることを疑い、粘血便、膿便、肛門括約筋の障害等の所見からは大腸炎を疑った。そのため、同医師は、原告に対し、至急入院して精密検査を受けるように指示するとともに、同日、癌の検査であるAFP(肝癌の検査)及びCEA(大腸癌の検査)のための採血、肝機能等の一般検査並びに胸椎及び腰椎のX線写真撮影等を実施し、同年三月二日に注腸バリウム検査を行うことに決めた。

また、同医師は、原告に対し、同年二月二五日に同科の消化管専門外来で受診するように指示し、原告が訴える下痢等の症状に対し、フエロベリンA(止痢剤)、ビオフェルミン(整腸剤)、ロートエキス(鎮痙剤)、パンビタン(ビタミン剤)を投与した。

原告は、同日、第一内科の消化管専門外来を受診した。同科の矢花医師は、原告を診察した結果、外痔核を発見し、原告に対し、投薬するとともに、注腸バリウム検査を入院後に施行することとした。

(2) 入院から本件腰椎穿刺までの経過

原告は、同年三月一日、医大病院の第一内科に入院した。第一内科における原告の主治医は、前田医師及び石田医師であった。

原告は、同日、石田医師に対し、便失禁、血性粘液性膿性便、乳房下の知覚低下としびれ感、一〇年前から下腿のしびれ感、左側の腹部から背部に拡がる鈍痛、左下腹部の灼熱感等があると訴えた。

同医師は、原告の腹部グル音が著しく、左膝は曲がらず、一〇日程前から関節痛が悪化している、右膝は昭和五六年八月二九日ころから曲げると張ったような感じがあって痛み、真っ直ぐに歩けないなどの症状があることを認めた。また、神経学的には、知覚は剣状突起以下で痛覚の低下(左右対称性の知覚低下で、部位により触覚の脱失があり、触覚の知覚程度は、左腹部がほぼ零、両下肢が二〇ないし三〇パーセントである。)があり、両下肢の振動覚はほぼ消失している、バビンスキー反射は左で陽性である、左下腹に軽度の圧痛があることなどを認めた。そこで、同医師は、原告に対し、病変鑑別のため、入院時の一般検査のほか、PFD(すい臓機能検査)、PSP(腎臓機能検査)及び三日間の便結核菌の培養を行うことを決定し、薬は外来と同じものを投与することとした。

原告は、同日、中西看護婦から病棟内に案内された際、廊下を車椅子を押しながら歩行しており、病室(六人部屋)内における自己のベッドの位置については、便所までの歩行が苦痛であることなどの理由をあげて入口側の位置に交替してくれるよう同看護婦に要望した。

他方、原告は、同月二日、心電図及びX線写真撮影の際、病室から検査室までは車椅子を使用して行き、歩いて便所に行く際には、看護婦に対して下肢の疼痛を訴えた。

同月三日に判明した入院時一般検査の結果では、原告には、栓球(血小板)の凝集、フィブリノーゲンの上昇、血清鉄の低下があったが、肝機能、AFP及びCEAは異常がなく、便に血液の混入があり、尿は異常がなかった。石田医師は、同日、原告の便秘に対してはプルセニッド(下剤)を投与し、膿粘血便があることに対しては同月五日に大腸内視鏡検査をすることとした。原告は、同月三日、膿汁様の便の排泄が八回あったが、排便が辛いこと、腹部の膨満感が強く、背部まで張った感じが続くことなどを看護婦に洩らしていた。

森医師は、同月四日、原告が腹部の膨満感及び便意を感じるけれども排便がないと訴えるので、原告に対し、レシカルボン坐薬(下剤)を投与した。原告の入院時に行われた臨床検査のうち、PFD及びPSP結果が同日に判明したが、いずれも異常所見はなかった。原告は、同日、排便に一時間もかかると看護婦に告げた。また、買い物のため階下に行くのには、車椅子を使用していた。

原告は、同月五日、矢花医師、守谷医師及び石田医師による大腸内視鏡検査を受けた。同医師らは、原告の肛門からS字結腸にかけて充血が強く、小さな白斑が密に存在し、粘液を所々に認めたため、この部位から組織を採取するとともに、細菌性腸炎、スモン、潰瘍性大腸炎の鑑別が必要であると判断し、便の一般検査等をするように指示した。

石田医師は、同日、原告に対する診察及び検査結果から、脊髄の病変があることが疑われたことや松本医師らから原告の髄液を採取して検査する必要があるとの指導を受けたことから、脊髄の病変の有無を鑑別診断するため、同月八日午前九時から腰椎穿刺によって髄液を採取することを決定した。

また、原告は、同月五日、尿の回数が少なく、一回の量も少ないと看護婦に訴えていた(〈書証番号等略〉)。

(3) 本件腰椎穿刺の施行

石田医師は、同月八日午前九時、第一内科の病室において、嵐看護婦の介助のもとに、原告に対する本件腰椎穿刺を開始した。

石田医師は、原告に上半身裸の状態で右側臥位にさせ、穿刺部位である第四腰椎と第五腰椎との間付近をイソジン(ポビドン・ヨード溶液)で消毒し、同所に局所麻酔をかけた。

原告は左下肢の屈曲ができないために、嵐看護婦が手を貸して原告に膝、腰、背中及び顎をできるだけ屈曲させた。

石田医師は、本件腰椎穿刺に用いる穿刺針について、その機能等に異常のないことを確かめ、原告に対しては、痛みを感じたときは痛いと言うように告げた上、穿刺をやや頭側に向けてゆっくりと刺入し、数ミリメートル刺入しては内筒を抜いて髄液の流出の有無を確かめながら慎重に行った。しかし、穿刺針が骨に当たって思うように脊椎腔に入らなかったので、針の角度を変えながら何回かやり直していたところ、原告が左下肢に足先までに達する電流が走るような痛み(放散痛)を訴えたため、同医師は一旦針を引き戻し、髄液の流出を確認した。しかし、髄液の流出がなかったので、同医師は、刺入位置を若干右にずらして再度髄液の採取を試みたが、採取することができず、針を刺入する度に原告が二、三回下肢痛を訴えたため、穿刺針を抜去した。原告の右痛みは穿刺針を抜去するとすぐに消失した一過性のものであったが、原告に疲労の色が見え、無理な体位からくると思われる腰痛を訴えたので、早く検査を終了させるため、同医師は、午前九時三五分すぎころ、菅医師と交替した。

菅医師は、石田医師からそれまでの事情を聴取した上、同様の手順及び方法で腰椎への穿刺を行った。まず、採取前の初圧は一〇〇mmH2Oで正常であることを確認し(正常範囲は七〇から一八〇mmH2O)、次にクエッケンステット試験を実施したところ、頸動脈の圧迫・解放につれて髄圧はスムーズに上昇・下降し、脊髄管の閉塞のないことが確認されたので、髄液の採取を開始した。その途中、石田医師が菅医師に交替して、約三mlの髄液を採取したが、髄液の流出が徐々に遅くなり、針を抜きぎみにしながら採取したところ、最後にはほとんど髄液が出ない状態となり、採取終了時の髄液の終圧は測定することができなかった。この間、原告からは疼痛等の訴えもなく、石田医師は、穿刺針を抜去して穿刺部位を消毒し、開始から約一時間で、本件腰椎穿刺を終了した(〈書証番号等略〉)。

右検査の結果は、細胞数は正常であったものの、蛋白質が二二〇mg/dlと軽度の上昇がみられた。

(4) 本件腰椎穿刺後、退院までの状況

原告の症状は、本件腰椎穿刺の直後から、背後部痛の出現、疼痛の部位の変化・拡大、排便・排尿障害の出現、知覚障害・歩行障害の増悪など、急激に悪化した。

原告は、腰椎穿刺後、約二時間の安静の後、午後零時三〇分ころ、昼食を摂取したが、その際には下肢の疼痛等について、石田医師及び嵐看護婦らに対して何の訴えもしなかった。しかし、同日午後三時三〇分ころから左腰部から下肢にかけてしびれ感と疼痛を、午後四時ころには腹部の膨満感と強度の腹痛及び体動時の左下肢痛を訴え始め、嵐看護婦からグリセリン浣腸を受けた。しかし、三〇分後にグリセリン液の排泄をしただけで、膀胱部の緊満感はなく、尿意もなかった。原告は、同日午前七時以降排尿がなかったため、石田医師の指示で、午後六時二〇分ころ、導尿を受け、五五〇mlの排尿をした。その後も自排尿はみられず、再度導尿がなされた。原告からは、午後五時ころ、看護婦に対し、痛みが左大腿部から左右大転子部へ拡大したようだとの訴えがあった(〈書証番号略〉)。また、石田医師が午後六時ころ診察した際、原告は、左腰部、左大腿部前面から後面にかけてつっぱった感じで強い痛みがあり、腹部に膨満感があるが、便意もなく排ガスもないとの訴えをした(〈書証番号等略〉)。そのため、石田医師は、看護婦に対して、腰背部痛が強い場合にはインダシン坐薬を投与するよう指示したが(〈書証番号略〉)、結局右坐薬は投与されず、両大腿部にヘルペックス(湿布薬)のみが使用され、腹痛についてブスコパン(鎮痙剤)が投与された(〈書証番号等略〉)。

原告は、同月九日午前二時三〇分ころにも腹部の膨満感を訴え、導気及びグリセリン浣腸を受けた。その際には排ガスのほか、排泄されたのはグリセリン液のみであったが、午前四時ころ、自分でゴム便器を用いて粘膿汁残渣物を排泄した。その後も、腹部膨満感は持続したものの、午前六時三五分ころ、午後一時ころ、午後八時一五分ころにも、便意があり、粘液・水様便等の排泄をした。また、原告は、右浣腸の際に膀胱が緊満状態にあり、導尿を受けて一一〇〇mlの排尿をし、午後一時一〇分ころにも導尿により四〇〇mlの排尿をした。午後九時ころには、原告から尿意があるような気がするとの話があったが、排尿はなく、午後九時二〇分ころ圧をかけたうえで導尿を受け、三五〇mlの排尿をした。原告における排尿障害が右のように顕著であったため、石田医師は、同日原告にウブレチッド(排尿調節剤)を投与した。原告は、同日午後四時ころ、背部から腰部及び左大腿部について痛みが持続していると訴えたが、鎮痛剤を使用するには至らなかった(〈書証番号等略〉)。

しかし、翌一〇日ころから、この排尿障害等の症状も僅かながら軽快し始め、同日午後一時ころ、排便の際、本件腰椎穿刺後初めて微量ながら自排尿があり、導尿も二回行われたものの、午後七時ころの排尿も尿意はなかったが自力で行った。また前日まで臥床のままとっていた夕食も、同日は、椅子に腰かけてとった(〈書証番号略〉)。

翌一一日には自排尿がなかったため、午前八時一〇分及び午後二時二〇分に導尿が行われ、それぞれ五五〇ml、一七〇mlの排尿があった。石田医師は、原告に対し、六時間毎に導尿すること及び翌日には泌尿器科を受診するよう指示した。結局同日における原告の四回の排尿のうち自排尿は一回のみで、極く少量であった。同日朝夕の洗面は室内の洗面所で自力で行い、食事も椅子に腰をかけてとったが(〈書証番号略〉)、依然として強い背腰部痛並びに下肢痛及びしびれ感を訴えていた。ただ、その部位は、三月八日の診察の際とは若干変化を見せ、背腰部の中心に強い痛みを、また大腿部の痛み及びしびれ感は、左下肢については足先の方にまで拡大した(〈書証番号等略〉)。また、左足については何かの拍子に足が背屈するという症状が見られた(〈書証番号略〉)。

原告は、一二日午前七時三〇分ころ、二五〇mlの自排尿をしたが、依然として尿意はなかった。石田医師は、腰椎穿刺直後に突然生じた尿閉の原因として、馬尾神経の障害、脊髄下部の障害、髄液採取自体等を考えたものの(〈書証番号等略〉)、前記のとおり、原告の訴える痛みの部位に変化、拡大がみられることなどは馬尾神経の障害等によるとは説明し難いことから(〈書証番号等略〉)、同日、泌尿器科に対し、脊髄膨大部から馬尾神経にかけての部位が本件腰椎穿刺により傷害を受けた可能性の有無、髄液の採取のみによりかかる症状が発現する可能性の有無並びに今後の治療及び予後についての診断を依頼した(〈書証番号略〉)。

原告は、同日泌尿器科で塚本医師の診察を受けた。同医師は、右診察結果に基づき石田医師に対し、仙髄の領域に知覚障害があり、低緊張性神経因性膀胱の可能性がある、つまり上位の脊髄レベルに何らかの障害があり、下位の脊髄レベルがこれに伴って急性の麻痺(ショック)状態となっている可能性があること、同月一五日に膀胱内圧測定、膀胱括約筋電図の検査を行う予定であること、単に髄液の採取のみで尿停滞となることはないこと、尿路感染症があり、現状では自排尿より導尿が望ましいことなどを報告した(〈書証番号略〉)。石田医師は、同日、原告に対し、ウイントマイロン(抗感染薬)の投与、自排尿の禁止、一日六回の自己導尿等の指示を行い、検査のためにウブレチッドの投与を中止した。結局、同日の原告の排尿は六回で、導尿は三回であった。

同月一三日には、原告に尿意の回復の兆しがみられ、原告はポータブルトイレに座り自排尿及び排便を行った。同日の原告の排尿は七回で、導尿は一回であった。

同月一四日、排尿もスムーズで残尿感もない(〈書証番号略〉)など、原告は、尿意については改善があったが、同日の尿中沈渣の結果から膀胱炎と診断され、シオマリン(抗体物質)の一日二回の点滴静注を受けることとなった(〈書証番号略〉)。同日の原告の排尿は九回で、導尿は一回のみであった。

同月一五日の原告の看護婦に対する訴えは、左下肢のしびれ感はあるが、小康状態にあるというもので、同日の原告の排尿は七回、うち導尿は三回であった。同日の泌尿器科における筋電図及び膀胱内圧測定検査の結果では、原告は、膀胱括約筋の収縮もない無緊張性膀胱の状態で、尿路感染症もあるので、自己導尿が望ましく、経過観察と感染症状に対する投薬を受けることとなった(〈書証番号略〉)。

また、同日判明した同月五日の大腸内視鏡検査の結果は、急性、慢性の直腸炎、S字結腸炎で潰瘍性大腸炎を強く示唆するというものであった。そのため、石田医師は、注腸バリウム検査の結果等も考慮して、同月一六日、原告の腹部病変について潰瘍性大腸炎(大腸に原因不明の広汎な非特異潰瘍性炎症を生ずる疾患で、病因論には諸説あるが確定されていない。症状は、下痢、膿粘血便、発熱、栄養障害であり、治療は腸庇護食を主とするとともに、サラゾピリン、副腎皮質ホルモンが用いられる。)と診断し、サラゾピリン(持続性サルファ剤)及びストロカイン(胃粘膜局所麻酔剤、胃・結腸反射の抑制のため)を投与して経過を観察することとした(〈書証番号略〉)。

原告は、同月一六日、胸椎断層X線写真撮影を受けたが、その結果は異常がなく、排尿についても同日の一〇回の排尿のうち導尿は一回のみで、以後導尿は同年七月一六日まで一度も行われなかった。

脊髄の病変及び尿閉等の症状の悪化については、依然その原因が確定できず、検索が続けられていた。原告の症状からは、多発性硬化症(神経線維をとりまく髄鞘が選択的に障害される慢性の脱髄性疾患で、増悪と寛解を繰り返すが、その原因について定説はない。臨床的には運動麻ひ、小脳症状、知覚障害、視神経症状、膀胱・直腸障害、精神症状等、、特異的なものはないが、髄液のタンパク質及びγグロブリンの増加がみられることがある。)、前脊髄動脈の血管閉塞、横断性脊髄炎等が考えられ、その中では横断性脊髄炎が最も疑われたが、多発性硬化症も否定できなかったため、石田医師は、同月一九日、その検索のため眼科に原告の診察・検査を依頼した(〈書証番号略〉)。しかし、眼科の武田医師からは、多発性硬化症を思わせる眼底所見、眼底の異常は認められないとの報告があり、多発性硬化症の可能性は否定された。

原告の症状はこのころから安定し、愁訴も少なくなってきた。排尿も同月二五日には点滴時以外は便所で行っており、同年四月三日には湿布薬を病室から看護婦詰所まで歩いて取りに来るなどした。

同月六日には、第一内科の教授である谷内医師も、回診後、原告に対するこれまでの回診及び検査結果並びに入院カルテ及び温度表を総合的に判断して、原告についていわゆる横断性脊髄炎との診断をしたが、依然その原因は不明のままであった。同月下旬には、潰瘍性大腸炎の症状はサラゾピリン投与により症状は落ち着いていたが、横断性脊髄炎の原因については確定診断ができず、第五胸髄以下の知覚障害、運動障害及び排尿障害がみられた。そこで、脊髄の病変検索のため、同月二七日、石田医師を引き継いだ阿部医師の指示により旭山記念病院で腰髄のCT検査が実施されたが、異常所見はなかった。

佐藤医師は、原告の横断性脊髄炎については、髄液中のグロブリンの上昇等の所見を考慮すると、潰瘍性大腸炎の治療薬としての効果もあるプレドニン(抗炎症免疫抑制剤として用いられる副腎皮質ホルモン。炎症、アレルギー、浮腫を抑制するなど広い効果を有し、抗腫瘍剤と併用されたり、ある種の白血病その他の特殊な癌では、治療薬として用いられることもある。)の投与が望ましいことなどから、同年五月一九日、原告に対するプレドニンの投与を開始した(四〇mg)。以後、同薬は原告の第一回退院まで継続的に投与された。

横断性脊髄炎によるとみられる症状については、知覚検査等が度々行われ、同月二六日の段階では、自覚的には下肢のしびれ感が継続していたものの、神経痛様の疼痛は軽減してきており、他覚的には触覚は改善しつつあり、振動覚もわずかに改善してきた。原告自身からも、同月二七日には、右下肢の腫れもとれ、一日一日よくなってきたとの発言があったが、全体としては著明な改善はなかった(〈書証番号略〉)。運動障害については、本件腰椎穿刺の直後は、起立・歩行ともに全くできなかったところ、同月一七日には、つかまり歩行は可能な状態となっており、同年七月七日には、中央理療科において週三回(月、水及び金曜日)、両下肢筋力低下に対する理学療法による治療が開始された。

他方、潰瘍性大腸炎については、遠藤医師が、同年六月四日、大腸内視鏡検査を行ったところ、病変は前回の検査(三月五日)より著明に改善していることが確認された。

排尿障害については、同年三月一六日以降導尿も行われない状態であったが、同年七月一六日、原告から尿意が頻繁で残尿感もあり、最初の排尿まで数分を要するとの訴えがあった。泌尿器科の丸田医師は、右症状は残尿に起因するものであると診断し、同月一七日、原告に対して自己導尿の指導をし、原告は、看護婦の介助を得て自己導尿を行った。原告は、このころ、排尿障害、歩行障害になかなか改善がみられないことから、精神的にかなり不安定な状態にあった。但し、その際の導尿は、七月一七日から同年八月五日まで数回行われたのみで、その後昭和五八年七月二五日に原告が退院するまで一度も行われなかった。

横断性脊髄炎の原因検索のために、遠藤医師の指示により、同年八月三日には旭山記念病院で第五胸髄前後の拡大CT検査が、同年八月六日には医大病院放射線科で悪性腫瘍の検査を目的とするガリウム・シンチグラム検査(ガリウムを患者に投与した後に、シンチカメラにより人体の一部又は全部の放射能の分布を測定して得られた放射能の分布図により腫瘍の部位を発見する方法)が実施されたが、CT上も異常所見は認められず、ガリウム・シンチグラム検査についても像は正常であり、脊髄へのガリウムの取り込みは見られなかった。しかし、中枢神経系の腫瘍の場合には後者の検査でも異常所見が認められない場合があり、腫瘍の有無を確定するためには、脊髄造影法による検査が必要であった。

そこで、前田医師は、そのころ、原告の夫に対し、今までの診断結果に納得がいかないのであれば、原告にミエログラフィー検査を受けさせてはどうかとの趣旨の話をしたが、同検査の実施には再度腰椎に針を刺入することが必要であり、原告は結局これに同意しなかった(〈書証番号等略〉)。

その後、尿閉の症状もなく、排便もほぼ正常であったため、菊地医師は、同年九月二七日、プレドニンの投与量を五mgに減量したが、一週間経過後の同年一〇月四日にも、症状の悪化は見られなかった(〈書証番号略〉)。そこで、同医師は、横断性脊髄炎に対するプレドニンの投与及び潰瘍性大腸炎に対するサラゾピリンの投与(昭和五八年二月二〇日に粘血便がないということから投与中止)を継続するとともに、今後の問題の中心は下肢機能の回復を目的としたリハビリテーションであるとの判断のもとに、医大病院では十分な指導ができないので、リハビリテーションを中心とした病院への転院について原告と相談した。また、同医師は、同月六日には、原告に対し、原告が腰椎穿刺によるものとの疑いを持っている下肢痛及び排尿障害(尿意頻回)は横断性脊髄炎によるもので、この症状は完全に元どおりになることはないが、リハビリテーションにより多少なりとも機能回復が可能であること、リハビリテーション中心の病院で治療を受けた方がよいことなどを説明した。

同医師は、同月一四日には、原告から再び左膝関節痛の訴えがあったので、両側膝関節のX線写真撮影及びC反応性タンパクの検査を実施したが、いずれの検査においても、既往症のほか、異常所見はなかった。この痛みは、同月一五日、リハビリテーションで温水浴を行ったところ軽減したが、同月二六日には、さらに両膝から下肢にかけての痛み(左の方が強い。)の訴えがあった。X線写真撮影の結果には、二歳時の既往症である左膝関節炎の所見以外に著変がなかったが、整形外科を受診させたところ、整形外科の高橋医師は、結核性変形性左膝関節症と診断し、現在のリハビリテーションは一週間休みとして、今後は歩行浴中心にする方がよいと指摘した。

菊地医師は、同月二八日、再度原告の夫とリハビリテーション中心の病院への転院について面談をしたが、原告の夫は医大病院での入院治療を希望した。同年一一月一八日には、紺野医師及び田村看護婦が原告と今後の方針について話し合ったが、原告は、杖を使わなくても歩けるくらいになるまで医大病院に入院していたい、歩いて入院してきたので、現時点で帰るのはあきらめがつかない、四か月間リハビリテーションをしてきたが、一人で歩行練習するだけで何もしてくれない、マッサージなどをすれば少しは感覚が戻ってくると思う、リハビリテーション中心の病院へ行っても治る確証がないので医大にいたいなどと述べ、慈啓会病院への転院については応じなかった。

同月二四日には、CEA及びAFPの検査が再度実施されたが、いずれも異常所見はなかった。また、原告は、同年一二月二六日、入院してから四回目の外出をし、同月二八日から昭和五八年一月四日まで外泊したが、問題なく帰院した。さらに、昭和五八年二月一四日ころには、筆に対する知覚が以前より速やかに感じられるようになり、第一趾及び第五趾も僅かではあるが知覚が戻った。同年三月二八日には、腹部以下の知覚障害、下肢筋力の低下があるが改善してきており、以前あった排尿障害も改善し、頻尿だが残尿感はないなど、原告の症状には一定の改善があった。その後、原告は、同年四月に三回(一〇日、一七日及び二四日)の外出及び一回(一五日)の外泊、五月に一回(二九日)の外出及び外泊(二一日)並びに六月に四回(二日から五日まで、一一日から一三日まで、一七日から一九日まで及び二三日から二六日まで)の外泊をし、同年六月一一日の外泊の際には一人でバスに乗って帰宅した。

原告は、同年七月二五日、家族に付き添われて独歩で医大病院を退院した。

(二) 退院後、第二回目の入院から退院までの経過

(1) 原告は、昭和五八年八月八日、退院後初めて医大病院第一内科を受診し、今井医師に対し、退院後自宅で運動する際に左膝から下肢にかけて疼痛を感じる、排尿の感じはあるが、排尿している時には分からないと訴えた。同医師は、原告を診察した結果、プレドニン、ウブレチッド、タガメット(抗潰瘍剤)、ボルタレン(消炎鎮痛剤)及びヘルペックスを投与した。

同月一五日の診察時には、原告が依然として排尿障害等を本件腰椎穿刺によるものとの疑いをもっていたことから、診察にあたった谷内教授から、原告に対し、排尿障害については脊髄レベルの高さから考えて腰椎穿刺とは関連性がないとの説明をした。

(2) 原告は、同年九月一日、朝食後、吐き気を覚え嘔吐した。その後症状が悪化し、午後三時三〇分ころには息切れを覚えたため、国民健康保険由仁町立病院の野尻医師に往診を依頼した。同医師は、原告に頻脈、脈拍の微弱及び低血圧が認められたので、強心剤及び昇圧剤の点滴を試みたが、改善が見られなかったため、同日午後八時ころ、息切れを主訴として救急車で原告を医大病院の第一内科に緊急入院させた。

原告の入院時の意識は、清明で、血圧は一〇八から六四mmHg、脈拍は一二〇で不整であり、第一内科では、原告の症状から心臓疾患であると考えられたので、第二内科に往診を依頼した。第二内科の菊池医師は、原告を診察した結果、心房細動の疑いがあると診断し、原告にリスモダン及びワソラン(抗不整脈剤)の静脈注射を行い、ジキC(強心剤)を投与した。翌二日、同医師は、原告を発作性心房細動と診断し、ペルサンチン(冠拡張剤)、ワソラン及びノイキノン(心筋保護剤)を投与して経過を見るよう指示した。原告の症状は、同月三日には、心電図も正常、脈拍も整となり、原告自身も元に戻ったようで落ち着いたと看護婦に話した。

その後発作性心房細動による発作もなく、経過も良好であったことから、原告は、同年一〇月二〇日に医大病院を退院した。

(三) 第二回退院から最終受診までの経緯

医大病院第一内科の前田医師は、原告の退院後もその診療を続けていたが、昭和五九年四月一八日、原告の依頼で東大病院整形外科宛に紹介状を書き、原告の症状の経過、原告が諸症状と本件腰椎穿刺との因果関係を疑い東大病院での信頼できる確定診断を求めていることを説明した上(〈書証番号略〉)、膝関節固定手術適応の有無について照会した。これに対し、東大病院整形外科の河合医師は、同年五月八日付けで、原告の病名については同科でも血管性の疾患、脊髄炎、癒着性クモ膜炎、腫瘍等の可能性を検索中であるが、膝(関節)固定術に関しては特に問題はないので、先に手術を予定すると回答した(〈書証番号略〉)。

その後同年七月六日に前田医師が原告を診察したが、これが医大病院における原告に対する最終診断である。

2  東大病院等における原告の治療経過

(一) 第一回目の入院

(1) 原告は、昭和五九年四月二八日及び同年五月八日の二回にわたり、東大病院整形外科で診察を受けた。その際の原告の主訴は、下肢の両側麻ひ、左膝強直であり、神経所見は、第七ないし第八胸髄以下の対不全麻ひ、知覚障害、BBD(尿勢減弱)、回内筋以下の反射異常亢進であった(〈書証番号略〉)。

(2) 原告は、右の診察の結果、とりあえず左膝関節の固定術を受けることとなり、同年七月一九日に東大病院整形外科に入院し、同月二三日に右の手術を受けた。原告は、手術後、再び尿閉が生じ(〈書証番号略〉)、下腿の内転等両下肢の症状の悪化を訴えた(〈書証番号略〉)。原告は、手術後の同年八月一日両松葉杖の使用を開始したが、痛みのため起立も不可能であった(〈書証番号略〉)。

(3) 原告は、同月九日に東大病院をいったん退院し、都立台東病院に転院し、リハビリテーション等の治療を受けていたが、第五胸髄以下の知覚障害は知覚脱失に近く、同部位の不全麻ひ、自力歩行不能及び弛緩性神経因性膀胱による自排尿の不能等の症状にまったく改善が見られず、胸髄不全麻ひに関する原因は不明で回復可能性も不明であったことから(〈書証番号略〉)、両下肢麻ひの原因精査のため、同年一一月一二日、東大病院整形外科に再入院した(〈書証番号略〉)。

(二) 第二回目の入院以降の経過

(1) 入院時の原告の所見は起立及び歩行不能であった。東大病院では、原告の症状が全体として自然回復、再発という経過をたどっていることから、血行障害又は血管性腫瘍の可能性が最も高いが、姿勢による痛みの変化及び昭和五九年七月以降の緩徐な増悪傾向からしてその他の腫瘍性疾患の可能性も無視できず、予後判定には脊髄造影又はNMR(核磁気共鳴装置)―CT検査の施行が必要であると判断した(〈書証番号略〉)。そこで、同年一一月一二日にX線写真撮影が行われたほか、同年一〇月三〇日、NMR―CT検査の申込みがなされたが、同検査は翌年一月末まで実施不可能であった(〈書証番号略〉)ことから、同年一一月一九日、ミエログラフィー検査が実施された。同病院の医師は、原告の第三腰椎と第四腰椎の間に穿刺し、一〇mlの造影液を注入した後、四〇mlの髄液を採取した。初圧は一二〇mmH2O、終圧は八〇mmH2Oであった。造影結果は、第一二胸髄と第一腰髄との間に局所的にブロックがあり、第五胸髄以上への造影剤の移動が不可能で(〈書証番号略〉)、髄内腫瘍の所見が認められ、星細胞腫が疑われた(〈書証番号略〉)。

(2) 原告は、同年一一月二二日、東大病院脳神経外科に脊髄腫瘍の精査及び治療を目的として転入院し、同年一二月五日、再びミエログラフィー検査を受けた。その結果、第一二胸髄から第一腰髄にかけて髄内腫瘍、第五頸髄以下に髄の腫れがあり、脊髄空洞症が疑われるが、長い帯状の脊髄星細胞腫の可能性もあるとの診断がなされた(〈書証番号略〉)。

これを受けて、同年一二月一一日に第一一胸椎から第一腰椎までの椎弓切除及び腫瘍摘出手術がなされ、その結果、脊髄髄内腫瘍との確定診断を受けた。腫瘍の塊は、上方は頸髄まで広がり、下方では数ミリにわたって馬尾のいくつかの神経根に細かく広がっていく大きなものであった。切開部位の腫瘍は、全部摘出されたが、病理学的には、脊髄の原線維性星細胞腫を思わせる極めて多数のローゼンタール線維を伴う神経膠の組織であった(〈書証番号略〉)。

しかし、手術直後右膝及び右足首関節を屈曲したり、股関節で左脚を上げたりする点で、原告の症状にいくらかの改善はみられたものの(〈書証番号略〉)、依然として膀胱・直腸障害はひどく(〈書証番号略〉)、神経因性膀胱、知覚障害等の症状にも顕著な改善は見られなかった。

同病院の医師らは、そのころ、摘出し残した上部の腫瘍により、一ないし三年位後には上肢及び呼吸の各障害が発現することを予想したものの、当面同部位の摘出手術を控え経過観察の方針をとり、昭和六〇年三月一一日、原告の夫に対し、右の方針と、腫瘍は本件腰椎穿刺以前から存在していたと考えられ、症状の悪化はその腫瘍に起因するもので、本件腰椎穿刺はそのきっかけとなったにすぎないことなどを説明した(〈書証番号略〉)。しかし、同医師らは、同年四月五日及び同月八日、原告に対してMRIを実施したところ、腫瘍が第四頸髄まで達しており、同月半ばには上肢痛もみられたことから(〈書証番号略〉)、手術によって上肢の麻ひ、感覚障害等が発現する危険も予想されたが、放置すれば呼吸も不可能な状態に至ることが確実であったため(〈書証番号略〉)、同年四月三〇日、二回目の手術を行うこととした。

同手術は、前回手術部位の上部の第四頸椎と第一〇胸椎との間の椎弓切除及び腫瘍摘出術であったが、腫瘍は、第四頸髄を上端とし、第五頸髄から実質化し、肥大して胸髄のほぼ全体を占める巨大な芋虫状の腫瘍で、実質性の腫瘍の下端は第八胸髄まで達し、長さ一〇cmに達する、程度二の星細胞腫(良性、浸潤性)であった。前回手術した第一〇胸髄レベルまで腫瘍切除がなされたが、第一一胸髄以下に延びる腫瘍は同手術では手がつけられなかった(〈書証番号略〉)。

(3) その後、原告は、同年七月六日より一一月二一日まで同病院放射線科において放射線療法を受けた後、昭和六一年一月二三日、リハビリテーションを目的として国立療養所村山病院に転院した。転院時の原告の症状は、下肢対麻ひ、下半身の知覚障害、膀胱・直腸障害等であり、歩行は不能であった(〈書証番号略〉)。原告は、同病院を同年七月一二日退院したが、現在も同様の状況で両下肢機能は全廃、胸部以下の重度の知覚障害、しびれ感、排尿障害及び排便障害等がある(〈書証番号等略〉)。

3  腰椎穿刺法等

(一) 腰椎穿刺法及び馬尾神経の構造等

腰椎穿刺法は、炎症性、敗血症及び感染後の中枢神経疾患の診断のための髄液の検査をいい、診断薬剤及び治療薬剤の投与等を目的としてクモ膜下腔に穿刺針を刺入して行うものである。穿刺点は、通常第三腰椎と第四腰椎間又は第四腰椎と第五腰椎間とされ、穿刺針は、通常の注射針の先端より鈍な構造となっている。

他方、人体において脊髄から出た末梢神経は、クモ膜下腔をすだれ状に浮遊した後、脊椎の間から椎外に出ていくが、第四腰椎と第五腰椎との間を通っている馬尾神経は、八対一六本で、外側を髄鞘によって覆われ、多数の細かい神経が束となり、それが結合組織で覆われて保護されている。この結合組織は相当程度の弾力性があり、損傷されにくくなっている。また、これらの神経は、腰髄及び仙髄と椎間孔との間を十分余裕のある長さでつながっており、かつ、くも膜下腔の髄液中を十分な空間的余裕をもってすだれのように浮遊している状態にある。

穿刺針の刺入中、針が馬尾神経に触れ、被験者が左右いずれかの下肢に疼痛を訴えることがあるが、その場合には刺入の方向をその反対側に変えて刺入し直すこととされている。

(二) 脊髄造影法(ミエログラフィー)

脊髄造影法は、脊髄のクモ膜下腔に造影剤を注入してX線透視又は写真撮影を行い、クモ膜下腔の状態とその付近との関係を知って病態等を診断する方法で、ミエログラフィーとも呼ばれる。造影剤で囲まれた脊髄、神経根等の観察をすることができ、脊髄腔が周囲組織から受ける圧迫、変形等の変化も鑑別することができる。

MRI検査(磁気共鳴画像検査)の利用が普及していなかった本件腰椎穿刺当時においては、脊髄の病変が疑われる場合には最も情報量の多い有用な検査であったが、当然に腰椎穿刺を行うことになり、腰椎穿刺や造影剤の副作用等により頭痛、嘔吐等大きな副作用を起こすことがあり、被験者の身体への侵襲が大きい検査である。また、脊髄腫瘍等で脊髄に完全なブロックがある場合には、腰椎穿刺自体や、腰椎穿刺による脊髄造影を行うことにより、腫瘍の上下の髄液圧に著しい圧差が生じ、腫瘍の移動等により脊髄症状に急激な悪化がみられることがある。したがって、脊髄腫瘍が疑われる場合にも、まず侵襲の少ない腰椎穿刺による髄液検査(クエッケンステット検査を含む。)、胸椎断層X線写真撮影、CT検査、ガリウム・シンチグラム検査等を実施するのが一般である。

二争点1(1)(本件腰椎穿刺による馬尾神経の損傷の有無)についての判断

1 前記第二の二の争いのない事実等及び前項の認定事実によれば、原告の症状は、本件腰椎穿刺直後から急激に悪化し、尿閉、便意を感じない、左腰部から大腿部の強い痛み等の症状が現れ、当初は起立、歩行等はまったく不可能な状態であったこと、その後経時的に痛みの部位は腰背部の中心から下腿に変化・拡大し、しびれ感も発現したこと、しかし、二、三日のうちに便意は回復し、排尿障害及び起立・歩行障害も一、二か月のうちに徐々に軽快して医大病院を退院するころには自排尿があり、装具を使用してではあるが独力で歩行が可能な状態まで改善がみられたこと、しかし、第五胸髄以下の知覚障害、運動障害、排尿障害は依然として残っており、全体としてはこれらの症状は入院時に比べ進行性のものであったこと、また、医大病院第一内科では、原告の症状に照らし、初診時から脊髄に病変が存在する疑いがあると判断し、入院後の諸検査の結果も考慮した上横断性脊髄炎と診断したこと、医大病院が実施したガリウム・シンチグラム検査等では脊髄腫瘍の確定診断の根拠となる結果は得られなかったものの、原告の髄液についての所見はグロブリンの上昇等脊髄腫瘍と矛盾しないものであったこと、その後昭和五九年一一月に東大病院で実施されたミエログラフィー検査により髄内腫瘍が確認され、同年一二月及び翌昭和六〇年四月にその摘出手術が行われたこと、本件腰椎穿刺は第四腰椎と第五腰椎との間に穿刺針を刺入する通常の方法でなされたこと、その際、原告から左下肢に電撃痛があったとの訴えがあったものの、その痛み自体は穿刺針の抜去に伴い消失した一時的なものであったことを認めることができる。

そして、これらの事実及び〈証人松本、同前田、同石田の証言〉を総合考慮すると、原告は医大病院入院当初から既に脊髄腫瘍(髄内腫瘍)に罹患しており、右腫瘍による神経障害の症状は長い期間をかけて徐々に進行してきていたが、本件腰椎穿刺により髄液を採取したことによって、髄液圧と脊髄の血管の圧とのバランスが崩れ、脊髄における動静脈の循環の状態の急激な変化とそれに伴う神経根、脊髄自身の二次的な障害をひき起こした(いわゆる「スパイナル・ショック(脊髄ショック)」の状態)ために急激に神経障害の症状が悪化、顕在化したが、その後、髄液の再生産によって髄圧が元に戻っていく過程で、一時的に悪化した症状にも軽快がみられたと認めるのが相当である。

2  これに対して、原告は、現在原告に生じている両下肢機能の全廃(歩行・運動障害)、排尿・排便障害、両下肢の知覚障害、しびれ感等の症状には本件腰椎穿刺の際の馬尾神経の損傷に起因する部分があると主張する。

確かに、石田医師は、本件腰椎穿刺を行おうとした際、穿刺針の刺入も思うにまかせず、数度にわたり刺入をやり直していること、穿刺針の刺入時に原告から左下肢に電撃痛の訴えがあり、これを抜去すると痛みが消失したことは、前記のとおりであり、これらの事実からすれば、石田医師の刺入した穿刺針が原告の馬尾神経に接触したことは、容易に推認されるところではある。

しかし、第三の一3(一)において認定した事実によれば、馬尾神経は、構造等からして、穿刺針が接触した程度では損傷されないよう保護された構造、存在態様にあることが明らかである。したがって、穿刺針が馬尾神経のいずれかに触れたとしても、神経の方が針から横にずれるため、穿刺針が本件腰椎穿刺時におけるようにゆっくりした速度で慎重に刺入されている限り、馬尾神経が損傷される可能性は極めて少ないと認めざるをえない。

また、原告の主張する障害のうち本件腰椎穿刺後に急激に悪化した各症状は、前記のとおり、その後軽快したことが認められ、このことは神経損傷による障害が不可逆的であるとの一般的な医学上の経験則(前田証言)と矛盾する。

他方、これらの症状が軽快した後、その余の知覚障害、歩行・運動障害、膀胱・直腸障害(主に排便障害)等は、原告が医大病院を退院する時まで継続したが、これらは、前記認定のとおり、程度の差こそあれ初診時以前から存在した症状であり、その後の東大病院での腫瘍摘出までの右症状の継続、推移等からして、その全過程を通じて徐々に症状が進行したことが認められる。そして、〈書証番号等略〉によれば、脊髄腫瘍は、髄内にある場合、数年の長期にわたり緩徐に病状が進展し、自覚症状としては、初期には腫瘍の存在するレベルの神経根の支配領域についての疼痛、しびれ感等の異常感覚、軽度の運動障害が、中期には運動障害、異常感覚、膀胱・直腸障害(排尿・排便障害)が、晩期には障害されたレベル以下の完全な感覚・運動麻ひの障害が発現するのが通常であることが認められるから、進行している原告の右各症状は右脊髄腫瘍による症状として合理的に説明することができるのである。

さらに、馬尾神経の損傷によって、原告の主張する、鼠径部から足底に及ぶ疼痛、大腿から下腿後面にかけての表在知覚障害、下腿筋の運動障害、足下垂、筋萎縮及び陰部の知覚障害の各障害が同時に生ずるのは、右障害の部位、内容、神経の構造等からして、原告の第一二胸髄から第四仙髄までの神経根を対として二〇本の神経のすべてに損傷がある場合に限られること〈松本証言〉、しかし、石田医師が行った穿刺の部位からして、右のような多数の神経を一時に損傷する可能性も皆無に近いことが認められる(同証言)。

以上の諸点を総合すると、本件腰椎穿刺後に原告の諸症状が悪化したことはこれまで繰り返し述べてきたところであるが、その発生機序については、これを馬尾神経の損傷によるものと考える原告の主張は正当ではなく、右のとおり脊髄腫瘍によるものと認めるのが合理的というべきである。

他に、石田医師が本件腰椎穿刺の際に馬尾神経を損傷したことを認めるに足る証拠はない。

3  したがって、医大病院の医師に原告の馬尾神経を物理的に損傷した債務不履行があったとの原告の主張は採用することができない。

三争点1(2)(脊髄腫瘍発見のための検査義務違反)についての判断

1  原告については、医大病院における初診の当初から脊髄に病変があるとの疑い診断がなされていたこと、右病変は現実には脊髄腫瘍(髄内腫瘍)であり、原告の医大病院入院当時における脊髄腫瘍の鑑別のための最も有力な検査方法が脊髄造影法であったこと、医大病院では結局ミエログラフィー検査を実施していないことは、いずれも前叙のとおりである。

そして、原告は、医大病院の医師が同検査を行わなかったことをもって、脊髄腫瘍の確定診断のため必要かつ十分な検査を行うべき義務を怠ったと主張するので、以下この点につき判断する。

2  確かに、脊髄腫瘍の場合、神経障害による知覚・運動障害等の症状は、通常不可逆的に進行し、最終的には腫瘍により障害された神経レベル以下の完全な知覚喪失、麻ひに至ることは前記認定のとおりであり、〈書証番号略〉によれば、これに対する治療としては、放射線治療もあるものの、手術による腫瘍の摘出、椎弓切除、硬膜解放等が主要なものであることが認められる。これらのことからすると、一般に、治療に当たる医師としては、できる限り早期に脊髄腫瘍の有無についての鑑別診断をなし、必要な手術を行うことが望ましいことはいうまでもない。また、原告が医大病院に入院していた当時、脊髄腫瘍の鑑別診断に最も有効な検査が、ミエログラフィー(脊髄造影法)検査であったことも、先に認定したとおりである。

しかしながら、具体的な臨床場面において、どの時点でどの程度までの検査をすることが必要か否か、またこれが必要であるとして検査実施のため、患者に対する説得等、どの程度の努力が必要であるかについては、疑われる病変の重大性、当該検査の有効性のみならず、当該患者の病状の進行状況、その病変の存在する可能性、治療可能性、検査の危険性及び患者に与える侵襲、さらには医師と患者との信頼関係等の事情を含む検査実施の容易性など諸般の事情を総合考慮して判断すべきものである。

3  そこで、以下、先に認定した、本件における具体的な事実関係に則して右の点を検討することとする。

まず、前記第二の二の争いのない事実等及び第三の一で認定した事実によれば、原告の知覚障害は、医大病院に入院時の一〇年以上前からその兆候があり、そのころから脊髄腫瘍による症状が長期間をかけて徐々に進行したこと、本件腰椎穿刺後一時急激に症状の悪化がみられたものの、これらの症状はその後軽快し、結局原告が医大病院に入院していた間は、全体として症状の急激な悪化はなかったことが認められる。

また、前掲各証言及び〈書証番号略〉によれば、脊髄腫瘍の発生頻度は、一年間で一〇万人に0.9ないし2.5人と極めて低い割合にとどまること、脊髄腫瘍の治療の主目的は脊髄・神経根の機能回復にあり、良性の非浸潤性腫瘍の場合には、腫瘍の全摘出が可能で、予後も比較的よいことから、手術とリハビリテーションによる根治を目標とすること、しかし、悪性腫瘍や浸潤性腫瘍の場合は、一時的な神経症状の改善あるいは症状悪化の防止を目標として、脊髄に対する圧迫を除去し機能回復をはかる目的で椎弓切除術(髄内腫瘍の場合は右のほか硬膜解放術。)を行うにとどまること、髄内腫瘍の場合、顕微鏡下におけるマイクロサージェリーの術式をとることとなるが、その手術手技自体高度なものを要求される上、予後は一般に悪いこと、本件においても東大病院における腫瘍摘出術実施後も原告の神経障害の症状には改善はみられなかったこと、東大病院の医師も第一回目の手術の後、腫瘍の残存を認識しながら、症状の悪化が現れるまで経過観察としていることが認められる。これらの事実を総合すると、結局、ミエログラフィー検査により脊髄腫瘍が判明しても、無条件に手術適応が認められるのはそのうちのかなり限られた症例にとどまるというほかない。

そして、本件では腰椎穿刺後スパイナル・ショックによる急速な症状悪化があったことは先に説示したとおりであり、前記第二の二の争いのない事実等及び第三の一の認定事実によれば、原告に対してミエログラフィー検査を実施する場合には再度腰椎穿刺を行わなければならず、その場合、それまでにプレドニンの投与等により軽快していたスパイナル・ショックによる症状が再び発現する危険性が存在した上、造影剤の注入等による副作用によってその他の症状すらも発現する可能性があったことが認められる。

さらに、先に認定したとおり、原告においては右症状の悪化自体が精神的な不安定要因となっていたのに加え、これが腰椎穿刺時の不手際によるものと思い込み、医大病院の医師に対する信頼感を喪失した状態にあったことから、容易にはミエログラフィー検査に対する原告の同意が得られない状況にあったことが窺われる。

他方、医大病院の医師は、診断病名を横断性脊髄炎としたものの、その原因が脊髄腫瘍である可能性を否定していたのではなく、より侵襲の少ない検査を選択し、ガリウム・シンチグラム検査等所要の検査を行って原因の鑑別を試みたが、それでもなお確定診断が可能となる所見が得られなかったことから、原因の確定のためには脊髄造影法を行う必要があると判断し、一度だけではあるが、現に原告の夫に対し、今までの診断結果に納得がいかないのであれば、原告にミエログラフィー検査を受けることをすすめてはどうかとの趣旨の話をしたこと、しかし、結局原告は医大病院における同検査の実施についてはこれに同意しなかったことも、すでに説示したとおりである。

これらの事実を総合すると、結局、医大病院の医師は、原告の脊髄の病変が脊髄腫瘍である可能性があることは認識しつつも、ミエログラフィー検査により原告の症状が前叙のとおりの機序で再び悪化する危険性が高いことに加えて、脊髄腫瘍は一般的に極めて稀な疾患であることから、同検査を実施しても、脊髄腫瘍の可能性がないことを確認しうるのみで、悪くするとむしろ症状が増悪して原告との信頼関係をさらに悪化させるだけの結果に終わることも充分予測することができたので、原告の症状が比較的落ち着いて顕著な悪化がなく、緊急の手術の必要性もない以上、検査の実施に対する原告の同意を得ることが極めて困難な状況のもとで、あえて同意を得て即時に同検査を行うべき必要はないと判断したと認められる。

この医大病院の医師の臨床判断は、先に認定した諸事実に照らし、その判断の基礎とされた原告の病状及び主観的な状況に関する認識においても、脊髄腫瘍という疾患の特質及びミエログラフィー検査に関する医学上の知識においても誤謬とすべき点はないし、ミエログラフィー検査は、手術の要否の判断のために施行されるべきではなく、臨床所見、X線所見や保存的療法の経過観察等によって、手術を行うべきであると決まったときに初めてその手術部位や範囲を確定し、術前にその付近の状況を把握するために行われるべきであるとの臨床指針(〈書証番号略〉)とも符合するものである。そして、原告の症状が事後的には全体として徐々に悪化の傾向をたどってはいったが、医大病院退院時までの経過としては、本件腰椎穿刺後一時悪化した症状がプレドニンの投与等により改善してきた状況にあることなどにもかんがみると、患者の診療に当たる臨床医として許される裁量の範囲内にあり、相応の合理性を有するものというべきである。

4  もっとも、先に認定した経過からすると、医大病院の医師は、原告の横断性脊髄炎の原因として、脊髄腫瘍を排除してはいなかったものの、その可能性はかなり低いものと考えていたことが窺われるところで、同医師らが脊髄腫瘍を強く疑っていれば、原告に対し、更に説得を重ね右検査を受けさせるべく努力したであろうことは推認するに難くない。

しかしながら、脊髄腫瘍の発症率は極めて低いこと、医大病院の医師が原告の診療に当たっていた間は、スパイナル・ショックによって一時悪化していた症状がプレドニンの投与等により軽快してきている状態にあったことは、前記認定のとおりである。さらに、前掲各証拠によれば、原告の症状は、脊髄の一定レベルに病変があり神経障害を来している場合の典型的なものであったことは明らかであるものの、その具体的病変については様々な可能性があったことが認められ、前記のとおり、その鑑別のために前記の諸検査を実施したにもかかわらずその確定に至らず、脊髄腫瘍の存在を示す検査結果が得られなかったという状況であった。そうだとすれば、かかる状況の下で、医大病院の医師が脊髄腫瘍の可能性が高いと判断しなかったことを不相当ということはできない。

この点について、原告は、腰椎穿刺時の終圧を測定することができなかったことが脊髄腫瘍と診断する有力な兆候となると主張するが、前掲各証拠によれば、確かに、医大病院の石田及び菅医師が行った髄液採取の終了直前には髄液の流出の勢いは弱くなっていたことが認められ、これは脊髄が脊髄腫瘍によってブロックされているために髄液の流動性を欠き、髄液の採取によってその圧力が減じたものと考える余地がある。しかしながら、髄液採取前に実施されたクエッケンステット検査の結果では、原告の髄液の流動性、すなわち脊髄にブロックがないことが確認されていることは前記のとおりであって、このことからすると、終圧の測定が不能であったことは、終圧がゼロであったことを示すものではなく、穿刺針が測定前にクモ膜下腔から外れたことによるものと考えるのが合理的である。したがって、原告の腰椎穿刺時における終圧の測定が不能であったことから、医大病院の医師は脊髄腫瘍の存在を強く疑うべきであったという原告の主張も採用しえない。

5  また、原告は、医大病院の退院後に東大病院に転院し、同病院ではミエログラフィー検査を受けることに同意し、同検査によって脊髄腫瘍の存在が確認され、その摘出がなされたことは前記認定のとおりである。

しかし、東大病院は、原告がその医療水準及び技術等を高く評価・信頼して、特に希望して転院した先であって、原告と病院・医師側との間の信頼関係が良好であって、医大病院の場合と顕著な相違がある。これに加えて、東大病院への転院時以降の原告の症状には、医大病院退院時よりも一層の悪化がみられ、症状も重篤なものとなっていたことなど、前記認定の事情を考慮すると、東大病院での治療経過をもって、直ちに、医大病院の医師においても容易に原告の同検査に対する同意を得られたから、同検査を実施すべき義務があったものということはできない。

6 以上のとおり、医大病院の医師は、被告の履行補助者として、本件診療契約上、原告に対し、その脊椎の病変についての診断においてミエログラフィー検査を行うべき義務を負っていたとはいえない。

したがって、同医師らは、原告に対し、ミエログラフィー検査を除いてガリウム・シンチグラム検査等所要のものを行って、その脊椎の病変原因の鑑別を試みたのであるから、本件診療契約の本旨に適した検査義務を履行したというべきである。してみると、同医師らに検査義務を尽くさなかった債務不履行があったとの原告の主張は採用することができない。

四争点1(3)及び(4)(説明及び転院義務違反)についての判断

これまでるる説示したとおり、医大病院の医師には、原告に対してミエログラフィー検査を行うべき義務があったとはいえないから、原告から同検査に対する同意を得るために、原告に対して同検査の必要性等を説明すべき義務があったともいえない。

また、同様に、ミエログラフィー検査を受検することを拒否している原告を医大病院から他の病院へ転院させて同検査を受けさせるべき義務もなかったというべきである。

他に、原告の主張するような説明及び転院義務違反が医大病院の医師にあったと認めるに足りる証拠はない。

したがって、この点についての原告の主張も採用することができない。

第四結論

以上の次第で、被告の履行補助者である医大病院の医師には、原告の主張するような債務不履行があったとはいえないから、原告の本訴請求は、原告の主張するその余の因果関係及び損害の点について判断するまでもなく、理由がなく失当であることが明らかである。

よって、原告の請求をすべて棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官大出晃之 裁判官菅野博之 裁判官手嶋あさみ)

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